カルテ114 死せる少年 その8

「じゃあ、バイエッタ姉ちゃんはやっと宿願を果たすことが出来たってわけか」


 アルトは肩の荷が一つ降りたのを感じ、少し安堵した。これで、たとえ自分がここで診察を受け、自分が傍にいたら姉のために白亜の建物が出現してくれないんじゃないかと気を揉む必要がなくなったわけだ。


「そーゆーことです。これで心置きなく診察を受けられるでしょう? 君のお姉さんも、随分突然いなくなった弟君のことを心配しておられましたよ」


 白い炎のように白衣を夜風にはためかせ、隙間から貧相な胸板を覗かせながら、奇妙な医師が、何でもお見通しだと言わんばかりにほくそ笑む。


「はい……ところで先生、俺が生きながら死人と化したのは、やはり吸血鬼に口づけされたからなんですか?」


 アルトは真剣な表情で、ここ数か月、彼の身の内を焼き尽くさんばかりに絶え間なく燃え盛る苦痛の原因について尋ねた。


「うーん、僕もそちらの世界のバンパイア種についてはまだデータ不足ですが、キスだけで吸血鬼化って話は聞いたことがないし、ちょっと考えにくいんですよねー。君も、最近まで一緒に暮らしていたあの癇癪持ち……じゃなくって、リリカっていう女吸血鬼から、そう聞いたんでしょう?」


「ええ、かなり胡散臭がられました。でもまだ、俺の死人化が中途半端なだけなんだと思います。その証拠に、内臓がドロドロに溶けていく感覚にずっと苛まされていて、食事もろくに喉を通らなくなっていたんです。このままでは遠からず、彼らの仲間入りですよ!」


 アルトは、敵の城門に押し寄せる突撃兵の如き剣幕で、自分の苦悩を訴え続けた。


「まあまあ、少し落ち着いて下さいよ。死人化以外にも、今の君の不思議な症状をたったひと言で表すことが出来る医学用語があります。僕は、多分それに間違いないと思いますよ」


 それまでおちゃらけて、軽佻浮薄そのものだった医師の顔は、いつの間にか真摯な色を帯び、演劇のラストに突然現れたちまちすべての問題を解決する「機械仕掛けの神」のように、少年に天啓を授けた。それはまさに青天の霹靂の如く少年の脳天を直撃した。


「ええっ、いったい何ですか、それは!?」


「コタールです」


 詰め寄るアルトに、夜風に禿頭を撫でられた医師は、涼し気に答えた。


「コタール……?」


「いわゆる妄想の一種でしてね。ちなみに妄想っていうのは間違ったことを根拠もなく真実だと思い込み、しかも誰が諭しても考えを改めないというものです。妄想にもいろいろな種類があって、なかなか面白いですよ。恋人でもない人と付き合っていると思い込む恋愛妄想、恋人に浮気相手がいると信じ込む嫉妬妄想、自分が誰かに見張られていると心配する注察妄想、自分は重罪人だという罪業妄想、自分が高貴な一族の末裔だと思ったりする血統妄想等々、枚挙にきりがありません。また、代わりどころでは、自分の家族や知り合いに、見知らぬ他人が化けているっていう、SFとかウルトラセブンとかにありそうなカプグラ妄想とか、その反対に、肉親や知り合いが見ず知らずの他人に変装していると妄想するフレゴリ錯覚というものもあります。


 で、肝心のコタール妄想っていうのは、『自分は既に死んでいる』と思い込み、食事をとらなくなったり、風呂に入らなくなる、『不死妄想』とか『虚無妄想』とも呼ばれるもので、抑うつ状態になるうつ病や、妄想や幻覚を主症状とする統合失調症などに見られる症状です。ちなみに僕らの方では、この病気の人は、ゾンビ映画……あっ、また映画って言っちゃった。まあ、演劇みたいなもんですけど、それを観たら居心地が良くなったとか、夜中に墓場に行くと落ち着くなんて場合もありますね。死者に近づくためでしょうか。だから君が吸血鬼の島を目指したってのも、よくわかりますよ。


 で、君の場合、確かに食欲不振などは見られますが、現在睡眠は取れているようだし、そもそもグルファストくんだりからこんな南西の地の果てまで来るパワーもありますから、うつ病とはちょーっと考えにくいんですよね。元から疑い深い性格だってさっき伺いましたから、そこに吸血鬼のキスというストレスが重なって、軽度の統合失調症に似た状態となったってとこでしょうか。妄想性障害って病気もあるんですよ」


 医師は形のよい頭をテカらせながら、滔々と語り続けた。アルトは話についていくのに必死だったが、ある程度は何とか理解出来た。


「……はあ、じゃあ俺は、キスのショックで死人になったと思い込んでいるだけなんですか? とてもそうとは思えないんですけど……」


 先程よりは力弱いが、まだ言い張る少年を、本多は春の日差しのように優しい眼差しで、暖かく見つめた。

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