カルテ184 眠れる海魔の島(前編) その8
「そうなんですか? 私も初めての妊娠なもので、よく知らないんですけれど……」
「吐き気の他には何か変化はありませんか?」
「えーっと、お米の臭いが何故か気になったり、酸っぱいものが食べたくなったり、朝になるとやけにお腹が空いて困ったりします」
医師の態度の変化に引きずられてか、アラベルも最初の疑いの気持ちや「はあ」の連発はどこへやら、いつしか積極的に質問に答えるようになっていた。
「ふむふむ、どれもよくあるものばかりですね。匂いに敏感になったり、食物の嗜好の変化、特に早朝空腹時の食欲の増減は典型的な症状でして、そこまで心配する必要はありませんよ」
「でも、今まで好きだったお米が急に嫌になってきたんですよ。こんな調子でお腹の子供を元気に育てられるのか、とっても不安なんです! 一体どうすればいいんですか?」
能天気な医師の返事に、アラベルは負けじと食い下がった。
「だーいじょうぶ! 今の時期はとにかく好きな物だけ食べていればいーんですよ! ま、野菜や果物類はある程度は摂って欲しいですけどね。一応葉酸ってのは大事とは言われていますんで」
「えっ、そんな簡単なことでいいんですか?」
天真爛漫な少年の如くあっけらかんと言い放つ本多に対し、アラベルは唖然としてしまった。
「他にもいろいろ良いものがありましてですね、あ、そういやこの前ゲットしたあれがあったっけ。ちょっと待っててくださいねー」
本多はくるりと椅子を回転させると、診察室の戸棚の中をガサガサと漁り出した。
「……」
やや猫背気味の小柄なその背中が、先ほどまでとは違って少しばかり頼りがいのあるものに、新米妊婦の瞳に映った。
「あったあった、奥村の奴ひどいよな、食べかけのものを人によこすなんて。せめて新しいの買って渡せよー」
何やら憤然としながらも、本多は青いブリキ製の四角い缶を暗がりから取り出すと、恭しくアラベルの前に差し出した。
「ジンジャークッキー! ピカピカピカーッ!」
本多は何故かややしゃがれ声で名称を高らかに唱えると、青光りする蓋をパカッと開けた。
中には確かに茶色い焼き菓子のようなものが顔を覗かせている。
「……食べ物、ですか?」
「ただの食べ物じゃありませんよー。これは生姜を含んだちょっと大人味のお菓子でして、身体に良く、吐き気を抑えると言われています。紅茶が大好きな人が多いイギリスって国の王様が病気予防になると言って広めたともいわれる、由緒正しい焼き菓子なのですよ。小腹が空いた時に重宝するし、嘔気も軽くしてくれる、一石二鳥のアイテムです」
「へえー、凄いですね……」
「薬代わりに只で差し上げますよ。蓋が既に開いちゃってますけどね」
「あ……ありがとうございます! 助かります!」
「いえいえ、どうせ貰い物ですし、お構いなく」
恐縮して深々と頭を下げるアラベルに対し、本多は缶を小脇に抱えたまま、ひらひらと片手を振った。
「後は、つわりって結構精神的な負荷から悪化することがありますんで、悩みやストレスを溜め込まないことが大事ですよー」
悩みという単語を聞いて、彼女は背後の家に残してきた、寝たきりの義母の事を忽然と思い出した。
「すいません先生、実はもう一人診ていただきたい人がいるんです! 一緒に来て下さい!」
「わわわわわっ!」
アラベルは貧相な医者の腕を引っ掴むと、奇跡が逃げてしまわぬうちに急がねばとばかりに、全速力で院内を駆け抜け、外に飛び出した。南国の上空には、ため息の出そうなほど見事な夕焼けが広がっていた。
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