カルテ199 運命神のお告げ所(後編) その15

 見れば怪物の右手には、いまやすっかりおなじみとなった青黒い護符がまたもや握りしめられている。間違いない、強酸を噴き出す毒エイの護符だ。


「バカな鈍牛ね。ワンパターンな男は女にもてないのよ」


「な、なにを言うか小便臭い小娘が! 俺様が帝都プロペシアの酒場でいかにモテモテだったか知らないくせに!」


 ルセフィの一山いくらの安い挑発が初めてクリーンヒットし、プライドをいたく傷付けられた元色男のケルガーは憤怒を露わにし、まなじりを吊り上げた。


「あらあら牛頭さんったら、本気で怒っちゃって。ま、あなたはせいぜい牧場の種牛がお似合いですよ」


 面白がったフィズリンがルセフィの援護射撃をしたため、ケルガーの忍耐は限界に達した。


「もう許さん貴様ら! くらえ、ギリアデル!」


「ルセフィさん!」


「わかっているわ、フィズリン。ジヒデルゴット!」


 猛牛の解呪と同時に、バンパイアの少女は黄と黒の入り混じった護符の文字を読み上げた。途端に手にした札から耳をつんざく凄まじい羽音と共に、無数の虫の大群が噴出した。


「うげっ!」


 敗北を知らぬ皇帝直属の近衛兵であり、かつ何人もが恐れる怪物のケルガーも、その正体に気づいた瞬間、思わず嫌な声を出してしまった。それは体長4、5センチほどもあり、凶悪な形の牙と長い二対の羽を持ち、腹部は黄と黒の虎のごとき縞模様で彩られている、見た目にも危険な昆虫、いわゆるスズメバチだった。非常に攻撃的な性格で、その尻の先から突き出た黒い針は、小動物なら一刺しで殺すほどの強い毒性の液を注入することで恐れられている。


 ミノタウロスの護符より生じた暗青色のすえた臭いのする液体は羽虫の群れに降りかかり、何割かを白煙と共に溶かすことに成功するものの、その防陣は鋼鉄の壁並みに厚く、女性二人の身体にまでは届かなかった。更に、生き残った大量のスズメバチは、あたかも女王を護衛する歴戦の戦士のごとく、勇猛果敢に標的たる野獣目掛けて吶喊した。


「ええい、あっちに行け、虫ケラどもめ!」


 ケルガーは両の豪腕を風車のように振り回すも、彼より俊敏な虫ケラどもにはかすりもせず、むしろコートの下に入り込まれる有様だった。


「……くそっ!」


 何とか服の上から探り当て、地道に一匹ずつ潰していくも、ついに肘の関節内側部に到達したつわものが、毒槍をその柔らかな急所に突き立てた。


「ぐがっ!」


 さしものミノタウロスもこれにはたまらず、みぞおちをハンマーで殴られたような悲鳴を上げた。即座に肘を曲げて筋力で押し潰して反撃するも、既に何の意味もなく、死の天使の大軍は、後から後から潮のごとく押し寄せてきた。


「こ、これはいかん……!」


 ケルガーの脳裏に、死の一文字が去来する。確か、噂で聞いた程度の話だが、スズメバチに二回以上刺された者は、運が悪ければたちどころに死ぬことがあるという。今の一撃が初体験の彼にとっては、まだ被害は痺れるような痛みのみに過ぎないが、もし次あれをくらったならば、いくら魔獣とはいえ、生ある者の宿命から免れられる保証はないだろう。


「致し方ないか……」


 機を見るに敏な賢いケルガーは、戦略的撤退を決意して、くるりとルセフィたちに広い背を向けると、一目散に逃走を開始した。先程の人狼との戦闘で所々道が崩れ、かなり足場は悪くなっているが、大事な命には変えられない。四方八方からつきまとうハチどもが厄介だったが、何とか追っ手を振り払いながら、哀れな獣は深夜の山道を転がるように駆け下りていった。

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