カルテ200 運命神のお告げ所(後編) その16

 風の嘯く音が、戦場を駆ける戦士たちのどよめきのようにどこまでも響く。


「ふう……」


 ケルガーは額の汗を拭いながら、野太い声で嘆息した。何時の間にやら切り立った断崖のすぐそばを走っていたが、さすが運動神経に抜群の自信のある魔獣なだけあり、危なげなく足先を運び、しつこく追ってきたハチも疎らになり、着実に死地を脱したかに見えた。しかしケルガーは気づかなかった。そこが、先ほど彼が護符魔法で人狼と少年を谷底に叩き落とした場所そのものであることに。


「うっ!?」


 突如、崖下から死霊のごとく伸びてきた手がミノタウロスの足首をがっしりと掴んだため、スピードを出していた彼は前につんのめった。


「誰だ!?」


 何とか体勢を立て直そうとするも、足元は石礫が多くバランスを崩す一方で、身体はどんどん斜面の方へ滑り落ちていく。


「は、離せ!」


「お断りします、野牛さん」


 落ち着き払った言葉とともに、握っている灰色の腕が鞭のようにしなり、虚空に向かって大きく薙ぎ払われた。


「グモオオオオオーッ!」


 屠殺場でとどめを刺される雄牛のごとき咆哮を上げながら、ケルガー・ラステットの巨躯が宙に舞い、消えた。



「おっ、あそこにいるのはルセフィさんとフィズリンさんですね。ようやく着きましたよ」


「ルセフィ、無事だった!?」


「何とか大丈夫よ、テレミン。あなたこそ怪我はない? 崖から落ちたんでしょう?」


「ダオニールさんのおかげでかすり傷程度だよ……って何で服着てないの、ルセフィ!?」


「あ……ああ、これにはちょっとした深い訳があってね……」


「あら、私としたことが、安心しきってうっかりしていました。はいルセフィさん、これをどうぞ」


 男性陣の帰還で、ふと現状のまずさに気づいたフィズリンが、自分の着ていた灰色のマントを急いで脱いで、全裸で両腕に眠れるモフモフことダイドロネルを抱いて突っ立っていたルセフィにすっぽり被せた。


「ありがとう、フィズリン。でもこれがないと、あなた寒いんじゃない? 私は風邪をひかないけれど」


「だからっていくらバンパイアとはいえ妙齢の女性をすっぽんぽんで公衆の面前に立たせるわけにはいきませんよ! 男は文字通り狼なんですからね!」


「ぶっちゃけそうですけど、地味に傷つきますね……」と、繊細な人狼が呻いた。


「それにさっきよりは風も鎮まってきたので、まだ我慢できますよ」


 フィズリンが黒々とした山肌を見渡しながらダオニールを無視して話を続ける。確かに彼女の言う通り、ミノタウロスとの戦闘中は大いに猛威を振るっていた山風も、今になってようやくその矛先を収め、春のそよ風程度までに落ち着いていた。


「ところでそっちの方にミノタウロスが行かなかった?」


「ああ、あの怪物なら隠れていたダオニールさんが足を引っ張ったら、そのまま谷底に転げ落ちていっちゃったよ。僕たち同様、しばらくは上がって来られないだろうな」


「ええっ、あの化け物をやっつけるなんて凄いじゃないですか、ダオニールさん! 見直しましたよ!」


 フィズリンが横から黄色い声を人狼に浴びせかける。


「いやあ、先程のお返しのつもりだったんですが、見事上手くいきましたねえ。意外と足元がお留守でしたよ」


 ダオニールが得意気に長い鼻をフフンと鳴らす。彼は落下の最中もテレミンをしっかり抱きしめており激突の衝撃から救ったばかりか、少年を背負いながら長い絶壁を命綱なしでよじ登るという八面六臂の大活躍をしたにも関わらず、ほとんど疲れた様子を見せず、魔獣を凌ぐと一説に謳われる伝説の獣人族の頑強さを物語っていた。


「あっ、そうだ! ここで再会を喜びあっている場合じゃないんですよ! 早く宿泊所に戻らないと!」


 色々とうっかりしているメイドが、突如素っ頓狂な声を上げた。

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