カルテ80 新月の夜の邂逅(前編) その3
「なんだ、そんなことですか。前々からなんか怪しいな、とは思っていましたよ」
「えっ……そ、そうだったのか?」
シグマートが、せっかくの渾身のカミングアウトをさらりと流してしまったため、ミラドールはずっこけそうになり、危うく地面に落下しかかったほどだった。
「うむ、吾輩もてっきりその乳が偽物と言いだすのではないかと心底恐れておったのに、そんなつまらんことだったので拍子抜けしてしまったぞい」
「黙れクソ猫! しかし何故怪しいと思ったのだ、シグマート?」
「だってミラドールさんって巨乳だし、エルフがほとんど飲まないお酒が大好きじゃないですか」
「何!? エルフは飲酒しないのか!?」
「稀にする者もいるとは聞きますが、ドワーフとは違いますし、酔っ払いキャラじゃないですからね。体質的にもそんなに強くないそうですよ」
「そうか……今後人前では気をつけるとしよう」
「今更遅いですよ!」
「なるほど、今から行くお里を我々に見られて、そのことがバレるのが嫌だったんじゃな、可愛いお嬢ちゃんめ。なぁに、吾輩は噂の巨乳一族が拝めるとわかり、ますますハッスルしてきたぞい! 褐色巨乳は男のロマンじゃて!」
よくわからん妄言を吐き続ける老人の鼻の下が伸びて顔面がゆるゆるになっていた。
「だから嫌だったんだよエロジジイ! くたばれ死に損ない!」
「あっ、もう着きますよ。しかしこれはひどいですね……」
言い争いを繰り広げながらも目的地に到着した二人と一匹が下界を見下ろすと、そこには紅蓮の炎に焼かれ、黒煙を吹き上げる丸太作りの家々の悲惨な姿があった。森を切り開いて造られたベルソ村は、十数軒の民家が中央の広場を囲む形の小さな村だが、そのほぼ全ての家屋が燃えているのである。
「ああっ、何てことだっ! うおっ、私の家も……っ!」
「結構家と家の間隔が開いているようなのに燃え移ったんでしょうか? なんか変ですね……」
「ん、なんじゃ、あの黒尽くめの奴は?」
フシジンレオが、再び太い前足で村の広場を指し示す。そこには、全身黒装束を纏ったいかにも怪しげな人影があり、複数人のイーブルエルフと相対していた。彼らは何か言い争っている模様で、上空のこちらには全く気づいていない様子だった。その人物は手にピンク色の札を持っており、一言「ドラール!」と唱えた。と、その途端に彼の前方にいた者たち全員が、魂が抜けたようにへなへなと膝をつき、そのまま足元に倒れこんでしまったのである。
「あ、あれは眠りの護符だ! あんなレアなものを何故持っているんだ、あいつは……?」
「眠りの護符とな、坊?」
「はい、僕も噂でしか聞いたことがないんですが、はるか南方のレクシヴァという名の島にある山には、年中ガスを噴出している桃色の岩があり、その煙を吸い込んだ者は瞬く間に眠ってしまうそうなんです。それほど人体に害はないという話ですが……」
「そうか、その岩の側で封呪した護符があれ、というわけか。それであの男は風上に立っていたわけだな」
熟練の狩人らしく、ミラドールが風向きを確認して考察した。
「おまけに術者にはあまり害が来ないように、変な覆面をしているんでしょうね。あいつが村に火をつけたんでしょうか。しかし何故こんな真似を……?」
「とにかくこの火事を消す方法はないのか、シグマート!?」
小さな顎に手を当て考え込んでいる少年を、振り返ったミラドールが鬼気迫る表情で見つめる。
「あっ、そうだ! さっき封呪したばかりの護符があったじゃないですか!」
ポンと手を打ったシグマートが、懐から青色の護符を取り出すと、昼間のように明るくメラメラと燃え盛る地上に向け、「リバオール!」と高らかに詠唱した。途端に札から幾条にも分かれた水流が音を立ててほとばしり、闇夜に狂い咲く炎めがけて落下していく。
「おお……!」
ミラドールが思わず感嘆の声を上げる。火災現場に突如降臨した慈雨は、みるみるうちに村中の業火を鎮めていき、後には白く立ち昇る煙が夜空を埋め尽くした。
「何奴!?」
さすがに黒装束の人物も夜空を舞うマンティコア一行に気がついた様子で、新しいピンク色の護符を手にすると、胴間声を張り上げる。意外に身長は低くて小柄なようだ。
「はて、どこかで聞いたような声ですが……」
「なんじゃシグマート、知り合いか?」
「さぁ、ちょっと思い出せませんね。珍しい護符を使用しているところを見ると、護符師かもしれませんが……大方遊び呆けて符学院を放校にでもなったやつが、身を落として悪事に走っているんでしょうかね」
「友達は選んだ方がいいぞ、少年」
「うるさいわ貴様ら! もう許さん!」
下の小男は馬鹿にされたのがしゃくに触ったらしく、護符を構えると再び叫び声を放った。
「ドラール!」
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