カルテ175 伝説の魔女と辛子の魔竜(前編) その8

 頬を伝って流れ落ちるものは、雨の名残りの水滴か、もしくは切り落とされた角の傷痕から滴る自分自身の血液なのか、最初は判別がつかなかった。


「私は……いったい……今まで……何を……」


 人の言葉を取り戻した魔獣は、長い夢から覚めたかのようなか細い独り言を呟いた。


「あら、やっぱり角が決め手だったようですわね。ご気分は如何ですか?」


 銀竜の頭のずっと下の方から、夢の中で何度も聞いた女性の声が響いてくる。ただし、先ほどまでの挑発的な色は影を潜め、我が子を思いやる母親のような優し気な感情に満ちていた。少なくとも魔獣にはそう感じられた。


「気分……そうね……なんだか急に頭の中にかかっていた靄が晴れたような……」


 そこまで話すと、銀竜は柳眉をしかめ、円形の傷痕が生々しい眉間に大きな皺を寄せた。


「ずっと長い間、幻の世界に閉じ込められていた気分……私はそこで施設に捕らわれ、眠らされたと思ったら、いつの間にか銀色の竜になっていて、なんとか施設を脱走したけれど、どうしても人間の肉が食べたくて、その血を啜りたくって、それで……あああああああああああっ!」


 今やすっかり人間性に目覚めた哀れなけだものは、自分の犯した酸鼻極まる目を背けたくなるほどの悪行の数々を鮮明にフラッシュバックし、喉から血を吐かんばかりの絶叫を迸らせた。


「かわいそうに、あなたも元は人間だったのですね。インヴェガ帝国の魔獣創造施設で人体実験の果てに醜い怪物と化し、理性を奪われたのでしょう。でも、ここでの惨劇はあなたが悪いわけではありません。あなたの角から邪悪な魔力の迸りを感じ、もしやと思って切断したのですが、どうやらこれがあなたの脳髄に食い込み、精神をコントロールしていたのでしょう」


 女は、足元の濡れた草むらにごろりと転がった、大きな銀の鎌のごとき物体を爪先でチョンと突いた。


「……何故、あなたはそんなに魔獣に詳しいの? そしてどうして私を殺さなかったの?」


 西瓜のごとき巨大な眼球から血涙を滴らせる毒竜は、未だ我が身を襲った運命の残酷さに打ちひしがれながらも、次第にこの知識と行動力に溢れる奇妙な客人に興味を抱き始めた。


「いえね、私の知り合いにちょっと破廉恥なマンティコアがいるんですが、彼に人喰いをやめさせた際に、色々と北の詳しい事情を聞いたんですよ。彼も自分の妻子を手にかけたことを死ぬほど悔やんでいましたが、徐々に心の痛手から立ち直り、今では人型に変身する技術をマスターし、人肉食の欲求を抑えることも出来るようになりました。大丈夫、あなたもちょっと練習すれば、すぐに出来るようになりますわよ」


 謎めいた女は、涙を滂沱する銀竜に慰めるように微笑んだ。


「あ……あなた、名前は?」


 朱色の眼を更に赤く泣きはらしながらも、こみ上げる嗚咽を抑え込み、魔獣は遥かな高みから首をやや下方に向けて、黒いローブの女性に問いかけた。


「私の名前はビ・シフロール。人には時々魔女だなんて呼ばれることもありますけれど、単なる一介の護符師です。とある事情で家族と別れ、当てのない旅をしております」


 女は赤毛を森を渡る風になびかせ、やや遠くを見るような目付きをした。


「お願いします、私に人間に戻れる方法を教えて下さい! 私、実家で護符師になる修行をしたことはあるけれど、辛くて途中でやめちゃったんです! でも、今度は諦めませんから!」


 竜は長い首を折れんばかりにほぼ直角に曲げると、まだ切断面が赤く滲む額を地面に擦りつけ、伝説の魔女に対し頭を下げた。

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