カルテ256 エターナル・エンペラー(前編) その1
樹冠から漏れ落ちる陽光に淡い朱が混じってきて、青葉を紅葉のごとく染め上げる。蒸し暑かった森の中に夕方の風が吹き始め、帰宅を促す間延びした烏の鳴き声がはるか頭上から落ちてくる。
「弱ったな、ここはどこだろう……?」
少年は、手にした虫かごを石の上に置くとボサボサに伸びた赤みがかった髪をかき上げた。年の頃は12、3歳だろうか。粗末な衣服に身を包んだ身なりは、ここガウトニル山脈に点在するそこら辺の村の子供にしか見えないが、やや伸びた前髪の間から輝く紫がかった瞳は、この世の全てを見抜くような不思議な力を秘めており、まるでくめども尽きぬ知識の井戸を覗き込むかのようだった。
少年は宇宙にも似たその双眸を閉じ、そっと耳を澄ませるも、普段なら亭々と木霊する木こりの斧を振るう音も素朴な木やり歌も何一つ聞こえず、ただ狂ったように鳴き続ける蝉の声だけが止まない雨の如く降り注いでいた。
諦めた少年は目を開けると木の枝を編んで作った虫かごに視線を落とす。中ではのこぎりのような牙を持つ大きなクワガタと、五本の角の生えた奇怪な頭のカブトムシが狭そうに蠢いていた。この類まれなる戦果を目にすると心休まるものの、そのおかげでこんな山奥まで誘い込まれてしまったようなものだった。この辺りには、時に凶暴な獣もでるというし、子供はおろか、大人でも訪れることは稀であった。
「はぁ……」
魂まで抜け落ちそうな深いため息を吐きながら、虫かごを手に持って暮れなずんでいく森を歩き始めたとき、彼は自分の目を疑った。夕陽を受けて朱金色に輝く、風に吹かれる羽毛のようにひらひらと舞飛ぶものが顔面をよぎったのだ。
「なんて綺麗な蝶なんだろう……!」
少年は、まるで生きている金石珠玉のようなそのきらびやかな生命体に一瞬で心を奪われてしまい、我を忘れて追いかけた。元の色はおそらく純白なのだろうが、所々透明だったり金色の部分もあり、年季の入った金細工師が長い時間をかけて丹精込めて作り上げた装飾品を思わせる繊細かつ幻想的な蝶で、虫好きの少年すら今まで見たことも聞いたこともないような種類のものだった。
「いったいどんな色の卵を産むんだろう……幼虫は何を食べ、どんな形のサナギになるんだろう……待てええええええ!」
噴火口からあふれ出すマグマのように止まらぬ好奇心に突き動かされた少年は、いつの間にか自分が斜面の方へ駆け寄っていることに気づかなかった。
「あっ!」
叫んだ時にはもう遅かった。つるつるした草に足元を取られた少年は、そのまま山肌を滑っていくと、石ころのようにどこまでも転げ落ちていった。
蝶は何事もなかったかのように、微風に乗ってひらひらと樹陰を飛んでいった。
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