カルテ65 人狼の秘湯と幻の月 その1

「ああ、癒される……生き返ったみたいだ……」


 テレミンはややジジ臭いセリフを吐きながら、硫黄の香りのする湯船の中から夜空を見上げた。今夜は無粋なガスが出ておらず、天空の星々が瞬いている様が綺麗に見渡せ、だいぶ細くなった月もカイロック山の端にかかっている。時折吹き抜ける秋の風が、火照った頭に心地よい。


「それにしても、こんなところに秘湯があったなんて……まだまだ世の中は知らないことばかりだな」


 彼は視線を、今度は岩風呂に向ける。大人が一抱え出来るほどの大きな岩を組み合わせて築かれた立派な露天風呂は、白濁した熱い湯に満ち満ちており、こんな山奥によく造ったものだと感心させられた。


「……ん?」


 白い湯気の向こうに、毛むくじゃらの背の高い影が動いたように見えたので、テレミンはつい目を細めた。影は湯をかき分け、落ち着いた足取りでゆっくりこちらへ歩いてくる。どうやら灰色がかった毛並みのようなので、少年はホッとして、「ダオニールさんも浸かりに来たんですか?」と声をかけた。


 しかし返ってきたのは、「ウキっ?」という動物の鳴き声だったため、テレミンの顔から血の気が引いた。湯煙を割って現れたのは、なんと全長2メートル以上はあろうかという三つ目の猿で、足よりも長い手で背中をかきながら、真っ赤な顔を少年に向けていた。全身は黒い毛で覆われているが、まばらに白い毛が生えているため、灰色と勘違いしたのだろう。


「ヴァ……ヴァナラ!?」


 血相を変えたテレミンは、慌てて風呂から飛び出そうと身構えたが、あいにく彼が背にする岩の反対側は切り立った断崖絶壁で、とてもじゃないが降りることは叶わなかった。かといって脱衣所に向かう方向は三つ目猿の巨躯が占めており、その脇を無事にすり抜けることは不可能に思われた。


「だ、誰か助けてーっ!」


 進退極まり、ついには悲鳴をあげるも、声は深山幽谷の奥深くに吸い込まれて、虚しく消え行くのみだった。


「やれやれ、テレミンさん、大丈夫ですよ。ヴァナラはこちらから攻撃を仕掛けなければ、普通は大人しい生き物です。ましてや湯の中では誰も好んで戦う者などおりませんよ」


 大猿の背後から、しわがれたガラガラ声が聞こえ、今度こそ灰色の毛皮を身にまとった影がぬっと姿を見せる。


「ダオニールさん、いたんならそう言ってくださいよ! まったく意地悪なんですから!」


 叫んだことが急に恥ずかしくなった少年は、顔を赤らめ抗議する。


「ハハハ、すいません。別に危害はないとわかっていましたから、黙って様子を見ていただけですよ。こういう時は騒いだ方がいけませんからね」


 人狼は大口を開けて吠えるように笑いながら、大猿の横を気軽に通って、テレミンに近づいてきた。


「ヴァナラが風呂好きだなんて知りませんでしたよ……」


「ここはヴァナラだけでなく、猪や鹿、それにクマも入りに来ることがありますけどね」


「ク、クマっ!?」


 さすがに少年の双眸が大きく見開かれ、顔面が恐怖に強張る。


「心配いりません。どんなに凶暴なケモノでも、風呂に浸かっている者同士は決して相手を攻撃しません。それがこの秘湯 、リンゼスの湯の暗黙のルールです。この湯は怪我や病気によく効くんですよ」


 ダオニールの言う通り、ヴァナラはまったく我関せずといった風に呑気な赤ら顔を湯船に浮かべ、上機嫌に「ウキキキキ〜」と何やら口ずさんでまでいる。


「あの冬の護符のせいで、この辺りのケモノたちは散々な目に遭いましたからね。本当に天の恵みですよ、ここは」


 人狼が同情するような優しい瑠璃の瞳で、年老いた魔獣を見つめる。そのうち、大猿はいきなりバッと風呂から上がって岩に飛び乗ると、ブルブルっと身体を震わせ、そのまま闇の中に溶け込むように消えていった。


「体を拭かなくても平気なんですかね? 風邪をひきそうな気がしますけど……」


「動物の毛皮というものは水を弾きやすく、しかもすぐに乾くので、そんな心配は要りませんよ。かくいう私自身がそうですから」


 澄まし顔で人狼が少年の疑問に答える。


「へぇーっ、さすがは獣人なだけはありますね、ダオニールさん。ところで、我らがプリンセスの様子はどうですか?」


「正直あまりよくなさそうでしたね。彼女にも一緒に入浴を勧めたんですが、嫌だと言って来ませんでした。私は別に混浴でも構わないんですが……」


「いや、そりゃ女性は構うよ! てか僕だって構うよ!」


 少年がいささか無神経な狼に突っ込む。


「そうですか、仮に吸血鬼ともなれば、我々のような定命の者など犬コロのように見えるでしょうし、価値観が違うので大丈夫かと思ったんですが……」


「確かにあなたは犬コロに見えるかもしれませんけどね。それにしても調子が悪いままなのは困りましたね。どうすれば治るんだろう……?」


「さあて、吸血鬼の身体についてはさっぱりわかりませんな。こればっかりは、たとえ白亜の建物でも無理でしょうし……」


 少年と人狼は互いに顔を見合わせると、同時にハーっと深いため息をついた。

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