カルテ13 酒とドワーフと嫌な風 その1
「いい月夜だのう……」
茶色のチュニックと同色の吊りズボンを履いたドワーフのバレリンは山道を歩きながら、ふと杖をつく手を休めて猪首を反らし、空を仰いだ。
煌々と白く輝く満月は、あまりにも丸々として、転げ落ちてこないのが不思議なくらいだ。あそこには運命を司る女神カルフィーナの住む神殿があると伝え聞く明日の勝負の願掛けに、一つ拝んでおいてもいいかもしれない。
「絶対に負けますように……なんてな、ハハハ」
バレリンはつい願いを呟いてから、さすがに恥ずかしくなって、笑いに紛れさせて誤魔化した。
月は真下に巍々としてそびえる、この暑い夏にも積雪が残るガウトニル山脈の岩肌を蒼白く照らしている。ユーパン大陸を南北に分断するこの長大な山脈は、北のインヴェガ帝国が、南のこちら側に武力侵攻してくるのを阻止する天然の要塞となっている。
南側の様々な小国家からなる都市国家連合エビリファイは、長年インヴェガ帝国との小競り合いを続けてきたが、近年は膠着状態におちいり、両者とも格別目立った動きはなかった。しかし最近になって、ユーパンの辺境で凶暴な魔獣の目撃情報が増えており、帝国の仕業ではないのかと、巷で噂されていた。
農夫であり、また一介のエール職人であるバレリンは、グルファスト王国に属するこのドワーフの山里・ヨーデル村から一歩も外に出たことがないため、魔獣なんぞはお目にかかったことがなかったが、魔獣のせいで村を定期的に訪れる商人が来なくなっては困ったことになるな、と散歩を続けながら一人憂いた。
彼らから聞く未知なる地方の話は、学問には縁遠いバレリンにも様々な知識をもたらしてくれ、いつも訪問を楽しみにしていたのだ。今日も村の酒場兼宿屋に一人逗留しているが、明後日には出立するとのことで、ちょっと名残惜しかった。また、商人たちは、彼の造る自慢のエール酒こと「バレリンシロップ」を、非常に高く評価してくれ、良い値段で買い取ってくれた。
ガウトニル山脈の腕利き炭焼き職人から入手した特殊な炭で熱処理して黒くなった麦芽と麦を大鍋でグツグツ煮込み、それに酵母や様々な薬草や香辛料を混ぜて、数日かけて発酵させる。
そうやって造られた、農夫であるバレリン自身が丹精込めて育て、厳選した小麦やハーブをふんだんに使ったエールは、まるで蜂蜜酒のように甘い味わいと独特な香り、それに深いコクを持ち、並大抵の造り手には生み出せないもので、他の種族よりも圧倒的に酒好きで舌の肥えたドワーフたちが、これ以上美味い飲み物は地上に存在しないと太鼓判を押すほどであった。
商人たちの話では、バレリンシロップは人間たちの間でも好評であり、城塞都市ドグマチールや、水上都市サインバルタでも大人気を博しているとのことであった。バレリン自身も、自分より優れたエールの造り手はいるはずがない、といつの間にか天狗になっていた。
底なしの飲み助であり、エールの飲み比べ勝負でも今まで一回も負けたことがなく、誰よりもエールの味を知り尽くしているという自負も、彼の自惚れを増長させた一因であったのだろう。
しかし、昨年の終わり頃から、右足の指が赤くなり、痛みを伴うようになってきた。多分歩いていて足を痛めたのだろうと思い、大したことはなかろうと高を括っていたのだが、症状は一向に改善せず、やがて左足にも飛び火し、徐々に両足首、そして両膝の関節にまで疼痛が生じるようになり、風が吹いただけで痛みに顔をしかめるまでになった。
彼はおののいた。
背丈は低いが頑強さが取り柄のドワーフの彼にとっては、今まで風邪ひとつ引いたことがないのが自慢だったのに、病気で苦しむなど初めての経験で、対処法が全くわからなかった。
ヨーデル村には、怪我を癒す慈愛の神ライドラースの神殿などは存在せず、薬師の先祖伝来の薬草による治療ぐらいしか医療的なものはなく、それもせいぜい風邪や腹痛を和らげる程度だった。エール造りは長時間立ちながら大鍋をかき回し続ける必要があり、こんな足ではやっていくことなど出来っこない。
畑仕事はまだ妻や息子たちに代わってもらうことができても、熟練した職人技術を必要とする酒造工程に関しては、とても任せられない。
それに加え、心なしかエールを飲むと、足の痛みが増すような気がするため、以前ほど大量に味わうことが出来なくなった。これは職人としては致命的である。
散々悩んだ末に、バレリンは潔くエール造りを引退することを決心した。しかしそうは問屋がおろさない。
商人は勿論のこと、ヨーデル村のドワーフ一同は、こぞって彼に泣きつき、皆の命の水とも魂ともいえる神酒を今後とも造り続けてくれと、哀願した。特にしつこかったのが、彼の飲み友達かつライバルのガストロームで、かつて一度もバレリンに飲み比べで勝ったことがないのを根に持っていた。
「そんなにやめたいって言うのなら、村の連中全員が見守る中、石舞台で俺っちとエールの飲み比べをしろ! 貴様が言葉通り本当に酒に弱くなったっていうんなら、俺っちに勝つことなんぞ出来んはずだからな! 正々堂々と闘い、もし貴様が負けたなら、皆あきらめて、引退を納得するだろうよ!」
延々とがなり続けるガストロームの胴間声のせいか、耳のあたりまで痛くなり、相手をするのが面倒になったバレリンは、「わかったわかった、じゃあそれでいい」とついうっかり承諾してしまった。しかしすぐさま後悔し、それ以来ずっと気が晴れず、うじうじと悩み続けている。
石舞台とは古来より伝わるドワーフ族の聖地で、館一軒は軽く建つほどの面積の巨大な平石のことだ。昔の偉大なる魔法の遺跡だとか、獰猛な巨人の力くらべの跡だとか、いろんな言い伝えがあり、通常は立ち入ることを禁止されているが、会合や祭りなどには使用を許される。
今でも石舞台には強大な魔力が宿っており、そこで行う勝負は一切の誤魔化しが通用しないと言われ、裁判や決闘にも使われていた。つまり、石舞台で飲み比べを申し込まれたということは、自分の全力を尽くして、不正なく、相手に対して応えないといけないということである。
たとえバレリンが引退したいがためにわざと負けようとしたとしても、周囲を酔っ払いに異常に詳しいドワーフたちに囲まれ、逐一チェックされたとしたら、酔い潰れたふりをしてもすぐ見破られてしまうことだろう。いくら酒量が減ったとはいえ、へたれのガストロームに負けるほど、まだ落ちぶれてはいない。つまりこれは巧妙に仕組まれた罠だったのだ。
(一体どうすればよいのだ?)
思考はぐるぐると同じ場所を回っていても、足の方はいつしか明日の勝負の場所へと近づいていた。
「えっ……!?」
バレリンはそこにあり得ないもの……月光を照り返す白い建物を見出した。
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