カルテ12 吸血鬼と怪鳥 その7

「クロザリル!」


 リリカの鈴の音のような声とともに、通路の壁が割れ、黒洞々たる闇に包まれた潮振りテラスが姿を現した。


 波が石垣に打ち付けられる響きが、今日はいつにも増して一際大きい。煌々と輝く満月の下、相変わらずあの化け物鳥が、人を舐めくさった態度で首をふりふり巣作りに勤しんでいた。


「久しぶりね、クソ鳥」


 ついに再戦の時が来た。この夜をどんなに待ち望んだことだろうか。しばらく姿を見せなかった宿敵が、ようやくのこのこと顔を出したのだ。城主として、今度こそ招かざる客を手厚く歓迎してやろうではないか。彼女は早速黒い革ケースから白い護符を一枚引き抜くと、空に放り投げた。


「ゼプリオン!」


 詠唱と同時に、たちまち彼女の眼前に大きな氷や雪の塊が浮かび上がり、怪鳥に向かってなだれ落ちていく。


「クケっ!」


 鳥は呆れたように短く鳴くと、両翼を広げ、以前と同様に羽根の刃を無数に撃ち出した。氷塊と羽根が次々とぶつかり合い、あるいは砕け散り、あるいは千切れ飛び、ともに石畳の上に転がり落ちていく。


「ぐぐ……」


 リリカが悔しそうに歯噛みするのを見て満足したのか、化け物は優雅に首を一回転させた。


 と、その時である。


「グェっ!?」


 いきなり鳥の頭上から何かの液体が雨のように降り注ぎ、身体全体をびしょ濡れにした。夜の色に紛れた黒い蝙蝠が、何かの瓶を持って上空を飛び去っていった。


 怪物は即座に罠に嵌められたことに気づいた。全身に降りかかったヌルヌルした液体は生理的に非常に不快で、しかも目元にも流れ込み、ただでさえ鳥目の視界を奪っていく。


 賢い鳥は、不利だと悟ると即座に身を翻し、潮振りテラスを飛び立つと、眼下の波立つ海に向けて垂直降下していった。異物を海水で洗い流そうと判断したのだろう。


 だが、それこそが命取りだった。


「ブグググっ!」


 水中に一旦潜った水鳥は、浮上しようとして異変に気づき、慌てた。普段ならぷかりと浮かび上がる肉体が、今はまるで鈍重な石の塊になったかのごとく言うことを聞かず、もがけばもがくほど、沈んでいくのだ。


 今宵は大潮、時は満潮。大いなる海のうねりは水面下にまで影響を及ぼし、更に身体の自由を奪う。


 自分以外の世の中全てを愚かなものと見下していた尊大な生き物は、死の間際に自分を超える存在を知り、無謀にも挑んだことを後悔したのだった。



「お話を伺った限りでは、その害鳥はこちらの世界で言うところの白鳥に似ていますね〜。『白鳥は優雅に泳いでいるようでも、水面下では必死に足を動かしている』なんていわれたりしますけど、あれって巨人の星で言ってたデマらしくてですね、聖闘士星矢のカミュなんかも騙されちゃってましたけど」


「巨人ノホシ? それはジャイアントかなんかなの?」


「おっと失礼、そういう漫画……っていうか昔話があるんスよ。で、本当は白鳥は尻から脂を分泌してまして、それを羽根に塗りたくって水を弾いたり、羽根と羽根の間に空気を溜めて身体を浮かせられるようにしているってわけなんですよ。つまり……」


「わかった! 要はその脂を落としてやれば、やつが海に逃げ込んだら、一巻の終わりってことね!」


「さっすがリリカちゃん! で、どうやるかっていいますと……」



「悔しいけど、全てあいつの言った通りね……」


 リリカは、無残にも海底に没していく宿敵をテラスの縁から見下ろしながら、溜め息を一つ吐いた。


「お嬢様、お見事でございます。さすが、我が永遠の主君」


 彼女の背後に影のように控えるロゼレムは、既にコウモリから人型に戻っていた。彼が手にする青みを帯びた瓶には、日本語で「ボディソープ」と書かれていた。本多医院でリリカがシャワーを浴びた時に使ったものである。


 あのふざけた医師は、診察代込みで、貴重な漆黒の魔法の護符一枚と引き換えに、薬とこれを手渡してくれた。油脂を洗い流す優れものだと言っていたが、確かに凄い効果だった。一本丸々使ったのはちょっと残念だったが、あの化け物をこんな簡単に倒せたことを思えば、少しも惜しくはないと言える。


 そういえば、これを貰う時、「ところでうちの受付の女の子にそっくりな人に会ったことってありませんか〜?」とよくわからないことを聞かれたが、身に覚えのないリリカには、「ないわよ!」としか答えようがなかった。今日の戦果を考えると、もう少し協力的になってやっても良かったかな、と思わないでもなかったが。


「……褒められても、あまり嬉しくないわ。正直、自分の実力で勝ったわけじゃないもん」


 リリカは駄々っ子のように頬を膨らまし拗ねていたが、この前のように易刺激的になることはなかった。


「しかしお嬢様が満潮時刻を選び、敵を引きつけてくださらなければ、こんなに上手くいきませんでした。自信を持ってください。夜風はお身体に悪いですよ。さ、早く中へお戻りください」


 慇懃な召使いは、まるで人間時と同じように、彼女にマントを差し出す。


「フフっ、今更風邪なんか引くわけないじゃないの、馬鹿ね」


「いえ、吸血鬼でも引く場合があるのです……『心の風邪』を」


「あら、上手いこと言うじゃない。じゃあ、あなたが治してね」


 妖艶な笑みを浮かべ、マントを羽織った少女は、冷え切った桜色の唇を、同じく冷え切った下僕の蒼い唇に重ねた。

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