カルテ14 酒とドワーフと嫌な風 その2
バレリンは一瞬、視力まで衰えたのかと思い、杖を持っていない方の手で目を擦ったが、石舞台の上に居座っている異物が消失することはなかった。白い二階建ての、四角い箱のような、生まれて初めて見る様式の建物。幻覚にしては、月光による影まで岩の上に落としており、あまりにも生々し過ぎる。
「な、なんじゃあれは……待てよ、確か子供の頃、村の長老に聞いたことがあるぞ」
彼は、半ば酒に漬かった脳髄から、遠い日の記憶を古酒のごとく汲み出した。
「そうだ、思い出したぞ! 全てを癒す白亜の建物か! 本当にそんなものが出現するとは……だが、何故?」
考えを巡らしながらも、答えは彼自身がよくわかっているじゃないかと、内なる声がささやいていた。
「わしの……痛みを治してくれるというのか!?」
真相に気づいたバレリンはいつの間にやら杖を放り投げ、石舞台めがけて短い両足を必死に動かしていた。目の前の蜃気楼が煙のように消えてしまう前に、この手で掴むため。
「いらっしゃいませ。ユーパンからのお客様ですね……ってうがあああああ!」
常に冷静沈着な白衣の赤毛の美女ことセレネースは、突如ドアを開け放って自分に向かって突進してきたドワーフに体当たりされ、つい叫び声を上げてしまった。
「おい! お前さんがわしの足の痛みを治せるのか!? ここが伝説の白亜の建物なんじゃろう!? お礼ならなんでもするぞ! 何が望みだ!? 身体か? わしの鍛え抜かれた身体が望みなのかぁ!?」
台の上に飛び乗り、受付嬢の顔面にのしかかった小柄なドワーフは、興奮のあまり口から唾を飛ばしまくって一気にまくし立てた。
「あなたの芋みたいな身体には興味は欠片も御座いませんので、早く私の顔からその汚い尻をどけて下さい」
「ぬおっと、すまん、これは失礼した!」
指摘を受けて慌ててバレリンは彼女から飛び退くと、お詫びのしるしに一礼した。
「まったく、この前の吸血鬼よりもひどいですね……」
彼女はなにやらモゴモゴとつぶやいた後、再び能面のごとき無表情に戻った。
「では、今から問診票を作成しますので、まず、あなたのお名前、種族、性別、年齢を教えてください」
「バレリン・二トラス! ドワーフ! 男! 54歳じゃ! 足が痛くて仕方がないんじゃ! すぐ治してくれ! 治せないのなら、せめて明日の飲み比べに負けるようにしてくれ!」
「仰っていることが後半意味不明なので、落ち着いてください。血の気の多いあなたには、先に採血した方がよろしそうですね」
いつの間にやら用意したのか、セレネースは左手に持った茶色の駆血帯で、抵抗する間もないほどの早業で、ごついドワーフの左腕を縛り上げると、素早く酒精綿で消毒し、右手に持った光る翼状針を問答無用で打ち込んだ。
「アヒーっ!」
聖なる夜の石舞台の上で、哀れなドワーフの絶叫が木霊した。
「おい! お前さんこそがわしの足の痛みを治せるのか!? 今度こそ確かなんじゃろうな!?」
診察室のドアを押し破るかのように叩きつけ、筋肉ダルマのドワーフがこちらの方向に真一文字に猪突猛進してきたため、いつもはのんべんだらりとしている本多も、さすがに、「おぎゃああああああ!」と恐怖の声を放ちながら椅子から逃げようとした。しかし時すでに遅く、両肩はがっしりと毛深い両手に押さえつけられ、立ち上がることすら出来なかった。
「頼む! なんとしてでも治してくれ! お礼ならなんでもするぞ! 何が望みだ!? わしの特製のバレリンシロップが欲しけりゃ、いくらでもやるぞ!」
「あんたの汚いシロップなんか要りませんよ!」
「そんな下ネタを言っとるんじゃぁない! ほら、これじゃ!」
バレリンは右手で医師を拘束したまま、左手で腰に吊っている素焼きの瓶を外し、蓋を開けると、開きっぱなしの本多の口に押しつけた。
「むぐぐぐぐぐ! 助けておか〜さん! 犯される〜っ! ……って、あら、結構美味しいですね、これ」
よくわからない悲鳴を上げていた本多だったが、天上の美酒を一口含むと、たちまち恐怖に怯えた表情が驚きに変わった。
「おお、わかるか、お前さん! わしとしても本当は、この自慢のエールを造り続けたいのじゃが、足の痛みのせいで、とても無理なんじゃよ! お願いじゃ! どうか助けてくれ!」
「どうどうどう、まぁ、落ち着いて、そこの椅子に腰掛けてください。この酒は後でありがたくいただいておきますけどね」
ようやくドワーフの魔の手から脱出した本多はそう言うと、黒く濡れた唇を白衣の袖で拭った。
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