カルテ107 死せる少年 その1

 ユーパン大陸の西方に位置する周囲を岸壁に覆われた絶海の孤島・イーケプラ島にも、小さな入り江が存在する。かつて島に町が存在した頃、唯一の港として使われていた場所だ。


 生暖かい潮風が吹くとある満月の夜、その浜辺を二つの人影が歩いていた。先頭を行くのは黒いスーツを着込んだ長身でオールバックの若い男。その背後は豪奢な赤いドレスを纏った金髪碧眼の少女。一見真夜中のお散歩といった風情の二人だが、通常の人間とは明らかに異なる点があった。両者とも肌の色が死人よりも青白く、また、その耳の先が葉のように微妙に尖っているのだった。


「ねぇロゼレム、本当にこんなところに護符が落ちてるなんてことがあるの?」


 後ろの少女が可愛い眉間にしわを寄せてしかめ面をしながら、足元の小石を軽く蹴飛ばす。


「はい、潮の流れの関係で、ここには様々な物が流れ着きやすいのですよ。ですからごく稀にですが、そういうこともあると伝え聞いております、リリカ様。護符以外の役立つ物もたまに見つかりますし、特に今晩は大潮ですから期待できますよ」


 ロゼレムと呼ばれた男は周囲を注視しながら丁寧に説明した。


「確かにこの前の糞鳥との戦いでバカスカ浪費しちゃったし、できたら補充したいけどねー、まったく、なんでこんなゴミ掃除みたいなことを、気高き至高なるバンパイア・ロードの淑女のリリカ・アクリノール・ゾニサミド様がやらなきゃいけないのよ!」


 至高の乙女は腰に手を当て頬っぺたをぷんぷくりんに膨らませながら、長い悪態を吐いた。


「だからリリカ様は城で待っていてくださいと申したではありませんか」


 ロゼレムが小さな主君にたしなめるように話しかける。


「うるさい! また変な魔獣が現れたら、あんた一人じゃ危ないでしょうが! だからわざわざ付き合ってあげる、あたしの家来思いの心がわからないの、この唐変木!?」


「はっ、愚かさゆえに深いお気持ちまで考えが至らず、誠に申し訳ありません。浅慮をお許しください」


 ロゼレムは優雅に振り返ると砂浜に跪き、臣下の礼を取る。しばし会話が途切れ、寄せては返す波の音だけが沈黙の時間を際立たせていた。


「……もういいわ、気にしてないから立ちなさい」


 きっちり十秒間押し黙った後、慈悲深い女主人は下僕に許しを与え、自ら右手を差し出した。


「寛大なお心遣い誠にありがとうございます、リリカ様」


 あくまで慇懃な態度を崩さない忠臣は、同じく右手を出して彼女の瑠璃のごとき手を握ると、すっくと立ち上がった。


「……ん?」


 その時、入り江の端に何か気になる物を発見した彼は、わずかに目を細めた。


「どうしたの、ロゼレム?」


「あそこの岩の陰に、何やら小舟らしき物があります。様子を見てきますので、しばらくここでお待ちください」


「何言ってんの、あたしももちろん一緒に行くわよ。さっき言ったばかりじゃないの!」


「ですが……」


「ぁあん?」


 リリカの高貴な宝石のような青い瞳が、まるで昼から夕暮れへと移行する大空のごとく、たちまち血塗られたクリムゾンレッドに染まっていく。


「申し訳ありません。出過ぎた真似を致しました。共に参りましょう、マイロード」


「わかればいいのよ、わかれば」


 踏ん反り返ってジャリジャリと砂を踏みしめながら先を行く小さな吸血鬼は、モジャモジャ頭の医師を思い浮かべ、易怒性を完全にコントロールするには、まだまだ修行が要るな、と内心ため息を吐いた。



「ボートですね……」


「ボートね……」


 二人は岩の間に引っかかった小舟に近づき、同時につぶやいた。木造の小さな古びた舟で、二人も乗ったらいっぱいになりそうだった。舟の中はちょうど岩場の影に隠れて、こちらからは長身のロゼレムでもよく見えない。仕方なく、砂浜から岩の上に上がった彼らは、そこに一人の人間が横たわっているのを目撃し、驚きの声を上げた。


「人間ですね……」


「人間ね……」


 青い帽子を被って粗末な服を着た、まだ12、3歳程度の黒髪の少年が、目を閉じて荷物袋を枕にし、ボートの底に櫂と共に臥床し、青ざめた満月の光に包まれていた。


「これって生きているのかしら?」


「どうやらそのようです。ご覧ください、胸が小さく上下していますよ」


 ロゼレムが長い指で指し示しながら、わずかに瞳を輝かせる。


「どうなさいます、リリカ様? この愚かで卑小な生物を、海の魚の餌にするか、または生き血を吸って新たな下僕となさるか……」


「あいにく今は魔力は満タンだし、これ以上召使いもいらないのよねぇ。面倒だし、このまままた海に押し戻しちゃいましょうかしら?」


 二人が穏やかならぬ会話を交わしていると、「う、うう……」と船底の少年が、にわかにうめき声を発した。

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