カルテ108 死せる少年 その2

「しまった! ほら、あなたのせいで起きちゃったじゃないのよ、もう!」


 明らかに自分も同罪だろうに、リリカは可愛らしい唇をツンととんがらせる。


「申し訳ございません、リリカ様」


 それでも律儀に謝る忠臣に対し、「ま、別にいいけど」と即座に機嫌を直すと、改めて小舟を見下ろした。


「こ、ここは何処……? あんたたちは……?」


 痩せぎすな体躯の少年はなんとかボートの上に身体を起こすと、二人を見上げた。


「いかがなされます、我が主君?」


「ん、いーんじゃない、教えてやっても」


「は、かしこまりました」


 ロゼレムはリリカに向かって仰々しく一礼すると、満月を背に姿勢を正して、朗々と歌い上げるように話し始めた。


「下賎な人間の子供よ、ここは闇の玉座に座す至高のお方が治めるイーケプラ島と呼ばれる聖地で、貴様のような定命の者が足を踏み入れてよい場所ではない。ちなみに私はバンパイアのロゼレム。こちらのお方は……」


 そこから先は自分に言わせなさいとばかりにリリカは左手を伸ばしてロゼレムの口を遮ると、「我こそは(以下略)」と、長ったらしい自己紹介を得意げにした。


「ということは、あんたらは人間じゃなくて、吸血鬼……?」


「だからさっきからそう言ってるじゃないの! まったく、頭の中身が鳥並みね! 本来ならこの清らかな島にあなたみたいな薄汚れた下等生物が迷い込むなんて万死に値するけれど、幸い今日はあたしは比較的機嫌が良いから、気が変わらないうちにとっとと出て行きなさい!」


「じゃ、じゃあ、本当に着いたんだ、伝説の吸血鬼の島に!」


 途端に、今まで薄ぼんやりしていた少年の顔に弾けんばかりの喜びが生まれ、見る間に全身に活力となって広がっていった。


「ちょ、ちょっとあなた、人の話聞いてる?」


「実は俺もとっくに死んでいて、今は吸血鬼なんです! お願いします、美しいお嬢さん、どうかここで一緒に住まわせてください!」


「な、何ですってえええええええええええ!?」


 リリカはカバみたいに口をあんぐり開けると、改めて少年の貧相な顔をマジマジと覗き込んだ。


 帽子を深く被っているため耳の形まではわからないが、その顔色は少しは生白いものの、とても闇に潜む不死の一族のそれとは思えなかった。


「嘘おっしゃい、あなたどう見ても人間の糞ガキでしょうが。思春期特有の自分だけは特別な存在になっちゃったって思い込んじゃうやつなの?」


「嘘じゃないです、本当なんです! もう俺、ここしか行き場がないんです!」


 必死に懇願する謎の少年の瞳には、少なくとも虚偽の色は伺えなかった。


「どうします、リリカ様? これ以上ごねるようであれば、私が手を下してもよろしいですか?」


 ロゼレムが刀のように右手を構え、少年の首元に狙いを定める。


「そうね、なんかこの若さで既に変態っぽいし、キモいからサクッとやっちゃっていいわよ」


「御意」


「まままま待ってください! 俺、女吸血鬼にキスされて、うつってしまったんです! 本当なんです! 信じてください!」


 まるで明日の朝食でも決めるように気軽に殺人実行について話し合う異形の人外の主従に対し、今や風前の灯火の生命となった少年は、喉の奥からありったけの声を振り絞って訴えた。


「えっ、あなた、あたしたち以外の吸血鬼に出会ったっていうの?」


 やや興味を惹かれたリリカは、怪鳥のごとく今にも獲物に襲いかかろうとするロゼレムを押し留めると、深紅の瞳を輝かせて、少年に問いただした。


「は、はい! この前、人間のふりをして、俺の家に泊まっていたんです! 彼女には人狼が仕えていました!」


「確か人狼族は絶滅したと、遠い噂で聞きましたが……」


 手刀を構えたポーズのまま固まっているロゼレムが、怪訝そうに眉をひそめる。


「何だか面白そうな小僧ね。それにあたしのことを『美しいお嬢さん』って呼んだのも気に入ったわ。わかった、話ぐらいは聞いてやるわ。あなた、名前は?」


「……アルトっていいます」


 折から吹き付ける強風が、死者の国に流れるという大河に浮かぶ船にも似た、少年の乗った小舟を揺り動かした。

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