カルテ206 運命神のお告げ所(後編) その22

「貴様、まだこんなところでグズグズしていたのか! もっと痛い目にあわせてやろうか、このクズ野郎が!」


「「ぎえっ!」」


 突如酒場の裏口から出てきたいかついスキンヘッドの大男が、巨大な肉切り包丁片手に怒れる暴竜のごとくわめき散らしたので、無銭飲食犯とその息子は飛び上がりそうになった。


「ずらかるぞ、テレミン!」


「ま、待ってください、父さん!」


 あんなに痛みを訴えていたにもかかわらず、ライオンから逃れて全力疾走するガゼルのような猛スピードで一目散に走り去っていく父親を追って、テレミンも迫り来る白刃の切っ先を寸でのところでかわしながら、死にものぐるいで元来た路地裏へと駆け出した。



「……とまあ、そんなことがあって、その疑問のことは解明どころじゃなくなって先延ばしになってしまったんだけれど、旅の途中でルセフィがコウモリに変身するのを見ているうちに、再び記憶の底から掘り起こされたんだ」


 テレミンはそこまで一気呵成に話すと口を休め、一息ついた。


「テレミン……あなた、本当に苦労してきたのね……」


 持病に苦しめられた自分以上に悲惨な少年の過去に同情の念を禁じ得ず、ルセフィは鳶色の双眸から涙を溢れさせていた。


「嫌だなあ、ルセフィ。話のポイントはそこじゃないんだってば」


「で、結局どういうことなんですか、テレミンさん? お話を伺っても、自分にはよくわかりませんでしたが……」


 フィズリンが怪訝そうな顔をしながら、遠慮がちに口を挟む。


「私もさっぱりですよ。レルバック様の酒癖が悪かった点は同意いたしますが……おっと、失礼」


 バルトレックス家の執事長でもあるダオニールが、エールの入ったコップに目を落とし、在りし日を偲ぶような素振りを見せた。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ」


「!」


 横たわっているリルピピリンの呼吸が一段と荒くなったため、一同は一旦会話を打ち切り、残酷な現実に引き戻された。


「ママーっ!」


 さすがに母親の異変を察知したのか、周囲を飛び回っていたモフモフが、方向を変えてベッドの方へ突進してくるので父親が首根っこを引っ掴んで何とか動きを止めた。


「リルピピリンさん、しっかり!」


「ど、どうすれば……」


「ルセフィ、もう一回リルピピリンさんに口ずけするんだ! ただし、今度は前と違って……」


 そこまで叫ぶように喋ると、テレミンは急に奥歯に物が挟まったような顔をし、口ごもった。


「テレミン、どうしたの!? ちゃんと最後までしっかり話して! あなただけが頼りなのよ!」


「ははーん、わかりましたよ」


 意外と洞察力に優れている老執事が、顎に右手の親指と人差し指を直角にして当て、口角を上げた。


「何よ、駄犬……じゃなくってダオニールさん、予言の謎が解けたっていうの!?」


 フィズリンがフグのように頬っぺたを膨らませながら、不服そうな声を漏らす。先を越されたのがよっぽど悔しかったのだろう。


「多分、ですけどね。テレミンさんがルセフィさんに頼もうとしていることは、とても花も恥じらう妙齢の乙女には言いづらいことなんですよ。それで躊躇しているわけなんですね。そうでしょう?」


「……」


 テレミンは返事代わりにコクリと小さくうなずいた。その顔は年齢相応の少年のもので、耳まで真っ赤に染めていた。


「!」


 その時ルセフィの脳天に、青い帽子を突き抜けてひらめきの雷が直撃し、一気につま先まで駆け抜けていった。


「そうか、そうなのね、テレミン!」


 彼女は海底のように青い唇を開くと、唾液に濡れた可愛げな舌を突き出した。

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