カルテ205 運命神のお告げ所(後編) その21
犬たちの大合唱はいつの間にかおさまっていたが、街の喧騒は徐々に高まり、一番星の輝く初夏の夜空いっぱいに広がっていった。
「おっと、気をつけろい、テレミン。俺は怪我人なんだからよ。なんでい、たかがコウモリじゃねえか。しっかしもうそんな時間かよ。小腹が空くわけだわ」
レルバックはドブ川並みに澱んだまなこで空を見上げながら生ゴミよりも臭い息を吐く。だが、その瞳は濾過された水のように次第に澄んできて、遠い過去を見る眼差しになった。
「あいつら見てたら符学生時代を思い出して、ちょっぴりおセンチになっちまったよ。もっともあの頃から呑んだくれてたけどな」
「ええっ、なぜコウモリと符学院が関係するんですか!?」
「ほら、護符師ってのは皆暑苦しい黒いローブを着てるだろ? 符学生の制服も同じやつでな、あれ着たまま街へ出ると『コウモリ野郎が来た』なんて一般人の皆様に陰口を叩かれたりしたものさ。一応勉強しながらも怪しげな悪所に入り浸っている俺を、どっちつかずのコウモリに例えたんだろうけどな。ま、平たく言えば妬みってやつよ、ハハッ」
今では学院を追い出され、一般人以下となってしまった哀れな男は、自嘲するようにニヒルな笑みを浮かべた。
「そうでしたか……でも、未成年者が堂々と飲み歩いていたら、そりゃ後ろ指をさされますよ。ザイザルの法律は厳しいですからね」
「うるせえな、優等生ぶりやがって。いいんだよ、若いやつがちょっとくらいハメを外すのは。それにしてもあのコウモリ、俺の血でも狙ってきたのかな? 酒臭くて不味いだろうに……あいててて!」
延々と無駄口を叩いて気を紛らわしていたレルバックは、傷の痛みがぶり返したため脂ぎった顔をしかめた。
「違うと思いますよ、父さん。あれは多分虫ばかり食べるコウモウリでしょう。さっき蠅の群れを追っていましたから」
先ほど驚いていたにもかかわらず、少年が冷静な眼差しで分析を開始する。
「以前読んだ博物学の本によると、コウモリは九百種類以上にも分類され、その種類ごとに食べるものが虫、鼠、魚、フルーツ、花の蜜、そして他の動物の血などと異なっているそうです。特に果物を好む種類のオオコウモリは肉がほのかに甘くて美味しくて、南方のジャヌビア王国では料理に使われたりもするそうですよ。一度食べてみたいですね」
テレミンは父親の傷口に布きれを押し当てて止血しながら、遠くなっていく黒い影を聡明な輝きを放つ瞳で見つめた。
「本当におめーは何でも知っているな! 大したもんだぜ……」
「いえ、僕がすごいんじゃなくて、著者のメイロン博士っていう博物学者がすごい物知りなんですけどね。動植物の調査に飽き足らず、獣人や魔獣の研究にまで手を染め、挙句の果てには人外と化し、今ではガウトニル山脈のどこかに隠れ住んでいるなんてまことしやかに言われていますけどね。もしいつか運よく会えたら、僕の持っている本に絶対サインしてもらうつもりです」
「そうかい、俺にはその願いはよくわからんが……ま、夢は大きい方がいいわな……っていたたたたたた!」
「しっかりしてくださいよ、父さん。腫れていないし骨も折れてなさそうだし大した傷じゃないですから。もう直血も固まって止まりますって」
大げさにうめく情けない父親に目をやりながら、親孝行な息子は嘆息するも、今までの会話から、心の内奥に奇妙な疑問があぶくのようにふつふつと沸き立つのを感じた。
(コウモリは、いったいどういう仕組みで……?)
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