カルテ117 死せる少年 その11
「おっ、ようやくセレちゃんがこっちに向かってきますねー。遅かったじゃなーい。もう、待ちくたびれちゃったよ」
本多が、医院の入り口から駆け出してきた人影に対してひらひらと手を振る。
「ほんじゃ診察も無事終了したってことで、僕はいっちょお魚になってきますよークロスアウッ!」
一声吠えるなり、彼は威勢よく白衣を脱ぎ棄てると、待ってましたとばかりに再び大海原へと突貫していった。
「待ちなさい先生、診察が終わったってことは、もうすぐ元の世界に戻ってしまいますよ。ここで魚どころか海坊主にでもなって一生を送るつもりですか?」
相変わらず冷静に、玲瓏とした声で淡々と述べるセレネースが、薬包の塊を手にしたまま、縮地もかくやという神速で、怒涛のタックルを波打ち際にいた本多の背中にぶちかまし、呻く彼を強引にお姫様抱っこした。再び最初出会った時のように思考が麻痺して口もきけない状態のアルトに、鉄面皮の看護師は薬包を放り投げると、「では、お大事に」と決まり文句を告げて、スタスタと砂上を引き返していった。
薬包を危なげなくキャッチした少年は、とりあえずどうしたものかと砂浜に腰を降ろし、空を見上げた。上空では、早くも雲は通り過ぎていったようで、三日月が再びほっそりとした顔を覗かせ、そんな下界の様子を見下ろしていた。
「三日月が再びほっそりとした顔を覗かせ、そんな下界の様子を見下ろしていた」という表現は、この世界においては決して比喩ではない。月の世界は荒涼とした、石礫だらけの地面が広がった不毛の地である。動物や植物の姿は欠片もなく、川の一本も見当たらず、生物が存在するのは一見不可能な死の世界に思われる。だが、その果てしない荒野の中に、一つだけ光を放つ、白く大きなドームが存在した。材質不明のドームの壁にはビドロ製らしき丸窓があちこちに見られ、あたかも芋虫の眼のようである。
そのドームの一室の、白い壁に覆われた一つだけ窓を持つ無機質な部屋で、一人の女性が簡素なベッドに横たわっていた。薄絹を身に纏い、流れる川の如き瑠璃色の長髪と、大理石のように白い肌を持つその女性は、猫に似た金色の瞳をしていた。その顔立ちは端正にして秀麗で、この世の者とは思われぬほどろうたけていた。彼女は臥床してはいたが、金眼をらんらんと見開き、一つも眠れぬようすだった。
「また眠れない……明日もやるべきことは山ほどあるのに、これはまずいわ……」
彼女はとうとう起き上がると、丸窓からユーパン大陸を有する青い星を眺めやり、砂霧のように儚げな溜息をついた。彼女は、あの地に蠢く人々の、否、知能を有する全種族の運命を握る超越者であった。五千年もの間、たった一人でこの最果ての地に住み、全てを滞りなく管理してきた。だが、最近徐々に不眠がちとなり、ようやく眠りが訪れても水溜りのように浅いものばかりで、ちょっとしたことですぐに目覚めてしまうのだった。彼女は再び嘆息すると、自分の人生と同じくらい古い伝承を思い出す。人間がまだ文字を持たない頃、それは口伝えで子々孫々へと代々受け継がれていったものだった。
「『汝、身体もしくは心が病いに侵されし時、十字の印刻まれし白亜の建物を見るであろう。ただし、それは汝が生涯に一度きりなり』……まだ私の元を訪れて下さらないのかしら、ホンダイーンは……早く私に海よりも深い安らかな眠りを授けて頂きたいのに……そうすればあなたの探し人は……」
疲れ切った頭で何事かを呟く絶世の美女の名は、世界を創造せし神々の一柱、運命神カルフィーナといった。
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