カルテ116 死せる少年 その10

「人間の死体は、洞窟の中や地下室なんかの、湿気が多くて低温の場所に置いておくと、たまに腐らず、脂肪が変質して蝋状になることがあります。これを屍蝋化といいます。その吸血鬼のお城とやらも、海のすぐ側だっていうし、けっこうじめじめしてたんじゃないですか? フィクションでは某白鳥の聖闘士のマーマなんかが有名ですね。沈む船の甲板にコート着て立っていた人が、なんで寝間着姿で寝室のベッドに横たわっているのか謎ですけど。マザコン息子の趣味かしら? そうそう、世界で最も美しい死体と言われたロザリアちゃんの屍蝋は、『ツイン・ピークス』っていうテレビドラマ……おっと、演劇みたいなものの死体のモデルにもなっているそうです」


「はあ……」


 少年は、とんでもない衝撃的事実の前に、ひたすら頷くことしか出来なかった。


「あと、有名どころでは、津山三十人殺しをモデルにしたとブギーポップ冒頭でも言われる、『八つ墓村』の、村人二十二人を虐殺した田治見要蔵ってやつが、鍾乳洞の中で落ち武者の鎧着て屍蝋化していたのなんてありましたっけねー。かく言う僕自身は大学の標本室で、屍蝋化したおっぱいなら見たことならあるんですが……」


「……」


 アルトは、ペラペラと滑らかによく動く本多医師の舌が奏でる知識の数々(意味不明な単語も多いが)に圧倒されていた。しかも言葉の端々から察するに、この男はどうやら女吸血鬼のリリカのことまで知っているらしい。五千年という気の遠くなるような年月の間、この世界を彷徨っているというのもおそらく本当のことなのだろう。


「おおっと、だいぶ風が出てきましたねー」


 彼は白熱してきた屍蝋話を一旦止めると、手庇を作って夜空を仰ぐ。確かに、天空から滲みだすように光っていた星々は、急激に動く雲によってどんどん覆い隠され、鋭い草刈り鎌のような月影も、ほとんど闇に呑まれつつあった。地上でも、高い木々の枝々が踊るように揺れ、薄着のアルトも吹き付ける夜風に肌寒さを覚えた。


「セレちゃん遅いなー。薬選ぶのに手間取っているのかな? 天気が悪くなる前に、早く泳ぎたいのにー」


 またもや本多医師が、診察中にもかかわらずいい加減な台詞を吐き、足をモジモジさせる。アルトはつい吹き出しそうになった。まったくおかしな医者だ。ライドラース教団にこんな奴がいたら、即刻首だろう。


「あっ、でも、その薬とやらを飲み尽くしてなくなっても治らない場合は、どうすればいいんですか?」


 彼を信じて内服してみようという気持ちが強くなっていたアルトは、ふと心に浮かんだ疑問を投げかけた。


「確か、この白亜の建物には、一生に一度しか巡り合えないって聞きましたけど……」


「うーん、皆さんそれよく言われますけどねー、とりあえず三か月分くらいどーんと長期処方するからけっこう何とかなるだろうとは思いますが、もしダメでも、僕はすでにいーものを見つけてあるんで大丈夫ですよー、ほら」


 本多は寒そうな禿げ頭を左手でさすりながら、右手のひょろっとした人差し指を、ざわめく森の方に向ける。


「えっ、ど、どれのことですか?」


「あそこの低い木にいっぱい咲いている白い花のことを、君たちは何と呼んでいますか?」


 そこには、あの五つの花びらを持つ、女吸血鬼のお気に入りという噂の花が、風に揺すられていた。


「ひょっとして、スネークルートのこと?」


「おお、まさしくそれですよ! あの日見た花の名前を君はまだ知っていたってやつですね!」


 本多はまったくよくわからない妄言をぶっ放しながら歓喜した。


「……すいません、脱線しました。あれは僕の世界の方じゃ、インドジャボクっていいましてね、インドっていうカレーの美味いなんかありがたい国に生える木で、根っこの形が蛇に似ているので、蛇の木……ジャボクと呼ばれるわけです。つまり、そちらとまんま同じネーミングですね。こいつのそのまさに根を掘って、水洗いしてから乾燥させたものには、血圧を下げたり、精神を鎮静させる成分であるレセルピンと、心臓の不整脈を改善させるアジュマリンっていう成分が含まれているので、様々な薬に使われるんですよ。高血圧や統合失調症、それから民間療法的には毒蛇に噛まれた時にも使用するそうです。だから今のあなたにはもってこいですよ。でも使いすぎると抑うつ的になっちゃうんで、注意して下さいね」


「へーっ、あの花がねえ……」


 彼は、花びらを震わせ闇に映える花々を見つめながら、リリカのことを思い出していた。あの生理中の女性よりもカリカリしている彼女がスネークルートを好んでいたのは、何か特別なものを感じ取っていたのかもしれないと夢想しながら。

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