カルテ86 ハイ・イーブルエルフの密やかな悩み その3

「あいたたた……ふぅ、どうやら生きているようね」


 なんとか谷川から這い上がったイレッサは、痛む尻を押さえながらも、大きなため息を吐いた。落下の際、迷わずに風の魔法を唱えて着水の衝撃を最低限に抑えたのが功を奏した模様だ。その後、増水した川に飲み込まれそうになるも、逆方向に作用する水流の魔法を行使して溺死を免れたのだ。元々ハイ・イーブルエルフ族は泳ぎが得意であったのも幸いした。


 次々と休む間もなく魔力を消費したせいか、疲労感が半端なかったが、まだ倒れないくらいの余裕は残されていた。とにかくどこかで雨宿りする場所を探さないと、体力も魔力も回復することは出来ないだろう。猛り狂う風雨は少しも弱まる気配を見せず、むしろどちらもまだまだこれからとでもいうように、徐々に強さを増している感じがした。


「とりあえず川沿いに上っていくしかないかしら。下流はもっと増水していそうだし、危ないわね……ん?」


 つい口に出して今後の方針を検討していたイレッサは、狭い川原に接する切り立った壁のような断崖に、岩が崩れ落ちたような跡と、その隣に人一人がやっと通れそうな小さな裂け目を発見した。


「ラッキー! ちょっとは運が向いてきたみたいね」


 急にルンルン気分になった彼は、両脚に喝を入れて豪雨の中を泳ぐように歩き、何とか謎の空間に苦労して身体を滑り込ませた。



「おや、意外と結構広そうね……」


 雨水の吹き込まない奥へと向かったイレッサは、進むにつれ、どんどん道幅が太くなり、天井も高くなっているのに気づき、疑問に思った。


(ここは一体何なのかしら……?)


 どうやら洞窟は人工的なものらしく、いつの間にか床が石畳に変わっており、ところどころに石柱も立っていた。


(この辺りには未発見の古代遺跡がまだ眠っているらしいとは聞くけれど、これもその一つなのかしら?)


 早くどこか落ち着けるところに座って身体を拭き、足の裏をポリポリしたい衝動を抑え込みながら、ハイ・イーブルエルフは持ち前の暗視能力を存分に発揮し、不思議な地下迷宮を隅々まで眺めた。


(どうやらここは古代カバサール王朝の遺跡のようね。大雨のせいで偶然入り口が現れたのかしら?)


 植物を模した優雅な形の円柱や、四角ではなく多角形を組み合わせた石畳は、約二千年前にこの地に栄えたといわれる謎多き古の王朝の建築様式に特徴的なものであり、また、ここが何か大事な施設であることを物語っていた。奇妙なことに、遺跡内には人が暮らしていた形跡は全く見当たらず、かといって棺や墓や祭壇のようなものも何処にも無さそうだった。


(こんな地の底に何故これほど立派な代物を造ったのかしら? どうも住居や墓所じゃなさそうだし……)


 古いものに興味のあるハイ・イーブルエルフは考古学的な疑問を覚え小首を傾げた。用途不明な建物や道具を発見した歴史学者が何でもかんでも宗教的なものと決めつけてしまう傾向があると聞くが、確かにその気持ちもわからないではなかった。


(地下で秘密の集会でもしていたのかしら……それとも一番奥にミノタウロスでも封印されているってーの? まっさかね……)


 ずぶ濡れ状態でただでさえ冷え切っているのに更に寒気を感じたイレッサは、ブルブルと身体を震わせると、気を取り直してズンズン先へと進んでいった。人工の地下空間はまだまだ広がり続け、今や家一軒はすっぽり入るほどの大きさとなっていた。


「凄い……」


 驚きのあまり放出された呟きは、周囲の壁に反響し、尖った耳元に虚ろに帰ってきた。その楕円形の大広間は太い円柱が隅の方に並んでいたが、彼が立っている中心部には何もなく、虚空に一人彷徨っているような浮遊感すら覚えるほどだった。また、周囲の壁には見上げるばかりの巨大な壁画が刻まれていた。それはなんとも形容しがたい奇妙な図案だった。


(何これ……?)


 イレッサは水を含んで重くなった上着を脱いで絞り上げながら、首を巡らせて繁々と大画面に見入った。

闇に潜む古代の壁画は、四つの場面で構成されていた。


 まず、豪華な作りの椅子に腰掛け、冠をかぶり杖を右手に持った髭の男……多分王だと思われる人物が、腹を左手で押さえながら顔をしかめている様子が描かれている。おそらく王様が腹痛を起こしているシーンなのだろう。その隣の図では、彼が何かの四角い建物の前に立ち尽くし、目を大きく見開き口を開けている姿が、やや誇張した表現で描写されているのが、イレッサには可笑しかった。


 次の場面は、モジャモジャ頭の人物と先ほどの王様がそれぞれ椅子に座って向かい合い、何やら会話を交わしているようだ。そして最後の図では、王様が何か小さな丸い物を男に手渡され、礼を述べているらしいところが刻まれていた。


「……」


 イレッサはいくら力を込めても水が延々と滴り落ちる服を絞る手を休め、暫し考え込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る