カルテ171 伝説の魔女と辛子の魔竜(前編) その4
銀色の雨が水しぶきを上げ、大気中の微粒子を悉く洗い清め、巨人の足踏みの如く大地を打ちつける中、突如凍り付いていたかのようだった女が、ずぶ濡れの懐から目にも止まらぬ速さで一枚の萌黄色の護符を引き抜いたかと思うと、「スピラゾン!」と鳥の鳴き声にも似た解呪を唱えた。
瞬時に女の周囲を流れ落ちる雨が、まるで鋭利な鎌にでも刈り取られたかのように、腰の辺りほどの高さでプツリと切り裂かれた。
否、それは雨ではなく、ほとんど透明に近い、極めて細い銀色の髪の毛だった。
「可愛げなお顔の癖になかなか策士ですわね、ドラゴンさん。自分の銀髪を長く伸ばし、激しい雨脚に紛れ込ませて私の身体を直接貫こうと企んでいらしたなんて。でも、私って最近持病のせいで視力がめっきり落ちてきたせいか耳が冴えちゃいまして、雨音とは違う奇妙なざわめきを感じてしまったんですよ。残念でしたわね」
折からの雷光に照らされた女の顔が一瞬凄絶さを増し、太古の女神のように超然とした微笑を浮き彫りにする。
「バオオオオオオオオッ!」
屈辱を倍加させる嘲笑に煽られて憤怒の極みに達した暴竜は万丈の気炎を吐くと、もはや策も何もかもかなぐり捨てて、獲物に襲いかかる肉食獣の如く、一直線に彼女目がけて吶喊した。
「あら、恐れを知らぬ蛮勇はお見事ですが、今動かない方がいいですわよ。さっきの貴重な真空波の護符を、あなたの散髪のためだけに使用したとでもお思いですか?」
女の声が銀竜の耳に届くか届かぬうちに、異変が生じた。
魔竜の額に生えた、抜身の剣の如き銀の角が、まるで見えない斧にでも切断されたかのように、根元から綺麗にスパッと離れ、そのまま地上に向かって落ちていったのだ。
「ほら、言わんこっちゃない」
「グバアアアアアアアッ!」
竜の絶叫をかき消すかのように、先ほどよりも一段と大きな雷の音が戦場に鳴り響いた。
エリザス一行がようやくポノテオ村にたどり着いたのは、日も傾き、山々が夕陽に照らされさらにその燃えるような色合いを深めた頃であった。
谷間にかさぶたの如くへばりついた寒村のため、宿屋はおろか店の一軒も存在しなかったが、「どこが『後少し』だニャ! あれから五時間も歩かされたのに泊まるところもないのかニャ! もう離婚だニャ!」などと激昂する猫娘をなだめすかしつつダイフェンが足を向けたのは、村の一番高い場所に鎮座する村長宅だった。
壮年でテカテカの禿げ頭の、人のよさそうな村長は、はるか昔に一度だけ村を訪れた吟遊詩人の若者のことをよく覚えていた。
ポノテオ村の村長ことローガンは、アポイントメントもなしに突然来訪した異邦人たちを快く歓迎し、妻を亡くし病弱な一人息子と二人暮らしだというのに、自宅の食堂でささやかな宴まで開いてくれた。
食堂は質素な造りだが天井が高く結構な広さがあり、十人以上は囲めそうな大きな木製のテーブルが中央を占めていた。たまにここで村の集会が開かれることもあるのだとか。
村長の息子のピートルは自室で寝ていたため、客人たちと村長の五人で夕食となった。
「本当に久し振りですね。それにしてもまさか獣人の娘さんと結婚されていたとは、驚きましたよ、ダイフェンさん……って、おっと失礼」
エールでにぎやかに乾杯した後、一気に飲み干したローガンは酒でやや軽くなった口を慌てて引き締めた。
「気にしなくていいニャ、よく言われることだし。それにしてもこのイノシシの肉は絶品だニャー!」
食事と宿が確保できたおかげですっかり機嫌を直したランダは、肉の切り身を手づかみでパクつきながら猫目を細めた。
「こら、ランダ、行儀が悪いぞ。せめてパンに乗せて食べろよ」
隣の席のダイフェンが眉をしかめて注意する。
「そういうダイフェンこそ酒なんか飲んでいいのかニャ!? この前ひどい目にあったばかりじゃないかニャ!」
夫思いの嫁は、仕返しとばかりにエールを啜るダイフェンを横目で睨み付けた。
「なあに、結局のところ大したことなかったじゃないか。薬さえ飲んでおけば大丈夫だって……多分」
すっかりあの日の惨劇を忘れたかのように、ダイフェンは左手をひらひらと振りながらにんまりした。
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