カルテ103 白亜の建物 その6

 次の日も前日とほぼ何も変わらぬまま時は過ぎ、やがて夜を迎えた。


「じゃあね、バイエッタ、おやすみなさい」


「おやすみ、お姉ちゃん」


 バタンと音を立ててドアを閉め、出て行くフィズリンを見送りながら、バイエッタは自分の代わりに一日中働きづくめな姉のことを考え、心が痛んだ。多分少しくらい動いても大丈夫だと言い張る自分に対し、優しい姉は、「原因もわからないんだし、無理しちゃダメよ。しばらく何もせず休んでらっしゃい」と彼女をベッドに横にならせたまま家中の仕事をして、一家を切り盛りしているのだ。申し訳なくて仕方がない。一刻も早く元気な身体にならねば、と気ばかり焦るのだが、どうすることも出来なかった。


「……寝ようかしら」


 うっかり一人言をつぶやいてしまい、寝てばかりなのにおかしなことを言うものだ、とつい苦笑いしながら、バイエッタはランプの灯りを消そうとベッドサイドに手を伸ばしかけた。その時である。窓に下ろした板戸を遠慮がちにコツコツと叩く音がした。


「えっ、だ、誰!? ここって二階なのに……風か何かかしら?」


 突然の怪異に怯える少女に対し、くぐもっているが穏やかな声が、明らかに板戸の外から響いた。


「夜分遅くすいませんが、開けていただけませんか? 決して怪しい者ではございません。私は白亜の建物の使者です」


「えええええっ!? 何ですって!?」


 謎の声が自己紹介するのを聞いた途端、バイエッタは衝動的に板戸を跳ね上げていた。夢にまで見た異世界の奇跡がついに自分の元に現れたのだから。しかし……


「コ、コウモリ!?」


 なんと闇の中にいたのは、全長1メートル以上はあろうかと思われる、見たこともないほど大きな漆黒のコウモリだった。被膜で出来た翼を折り畳み、窓枠にとまった異形の使者は、獣の口から人間の言葉を器用に発した。


「どうか驚かないでください。私は白亜の建物に住んでいるホンダという医者に仕える者です。名前はル……ルルと言います」


 そこで何故かコウモリが少しばかり口籠ったが、まだ衝撃の渦中にいたバイエッタはそれどころではなかった。


「ど……どこに白亜の建物があるの!? ここからじゃ全然見えないんだけど……」


「実は、少しばかり離れた場所にホンダイーンが出現したため、こうして患者様であるあなたをお迎えにあがったのです」


「ホンダイーン……確かに噂でその名を聞いたことがあるわ!」


 彼女は目を限界まで大きく見開いて、自然界には存在しない大コウモリを穴の開くほど凝視した。


「ご理解が早くて嬉しいです。あまり他の人に知られたくないので、一人でこっそり私についてきてください。出来ますか?」


「……確かに騒ぎになったら面倒だものね。わかったわ、すぐ用意するからちょっと待って!」


 バイエッタは慌てて寝巻きの上から外套を羽織り、靴を履くと、そっとドアを開けて部屋を抜け出し、足音を忍ばせて階段を降り、外へ出た。


 深夜の野外は冷え冷えとして、吐く息さえ凍りそうだったが、彼女の頬は興奮のあまり桃色に染まっていた。大コウモリは彼女のすぐ側に舞い降りると、「それでは参りましょう。早くしないと建物が消滅してしまいますので、急いでください」と言い残し、村外れの林に向かってヒラヒラと飛んでいった。


「ま、待って!」


 臥床してばかりいて足元がおぼつかないバイエッタは、若干ふらつきながらも懸命に奇妙な先導者の後を追った。


 夜道はうっすらとした月明かりに照らされ、ランプ無しでも迷わす歩くことは出来た。コウモリは器用に木々の枝を避けながら、雪の残る林の奥へ奥へと進んでいく。彼女も昔話に出てくる笛吹きの笛の音色に魅了されついていく子供のように、フラフラと樹間に分け入っていった。母親を信じ切った赤子のごとく、一切疑うことなく。


 彼女の後を、こっそり伺っている者がいることにも気づかずに。



「ほら、見えてきましたよ。もう少しです」


 湿った落ち葉を踏みしめながらしばらく行くと、頭上から例のくぐもった声が響いてきた。


「えっ、どこ!?」


 確かこの先には、幾星霜も年を経た大きなクスノキが生えていたはずだ。


「あそこをごらんなさい」


 コウモリが舞い降りてきて、かぎ爪で一点を指差す。進行方向のクスノキの根元に、木の幹に隠れるように白い塊がちらりと覗いていた。


「あれって雪かなんかじゃ……ええぇっ!?」


 右手で庇を作って眺めていたバイエッタはそれが何なのか気づいて、驚きの声を上げた。雪を固めて作った、人が数名入れそうな大きな四角いかまくら……それが視界の先にあるものの正体だった。

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