カルテ222 伝説の魔女と辛子の魔竜(後編) その3
「あら、凄いじゃないですか。どこから見ても立派な人間の女性ですよ!」
人里離れた山中の周囲を大木に囲まれた草地の真ん中で、黒いローブを着て革製のカバンを肩に下げた赤毛の女性は、鳥の鳴き声にも似た甲高い驚きの声を上げた。
彼女の前には、日光をはね返す長い銀髪をなびかせた一糸まとわぬ妙齢の美女が、今ベッドから抜け出したばかりのような様子で気だるげに立ち尽くしていた。その瓜実顔は美麗そのものだが深い憂いに満ちており、双眸は曇天の空に似た灰色で、額にはコイン大の赤い傷跡がハンコでも押したかの如くくっきりとついていた。
「……やっと成功しましたか、ビ・シフロール先生?」
赤毛の女性ことビ・シフロールに問いかける声は虫の羽音のようにか細く、今にも眠りの海に沈みそうだ。
「ええ、よく頑張りましたね。たった一日足らずでここまで上手く出来るとは、正直驚きましたよ。知り合いのマンティコアなんか五日もかかりましたからね。その間何度も食欲に襲われそうになり、私の胸にかぶりつきそうになったのでちょいとお仕置きしてやりましたよ。もっとも今思うとあれは食欲じゃなくて性欲だったのかも知れませんけど。それはさておき、人間を食べたいという欲求は、もう完全に無いですね、元銀竜さん?」
魔獣をも超越する伝説の魔女は銀髪の女性を手放しで褒め称えつつ、自分の細い左の前腕をぐいっと前に突き出してみせた。
「ええ、別に竜の身体の時の人肉食への強い衝動は欠片もありません。ただ、まだ慣れないせいか、とても疲れてしまって、だるいんです……」
「そうですか、どうも人化の術の影響は個人差があるようですね。あなたはあんなに巨大な魔竜でしたから、体型を小さくするのに非常に魔力を使うため、負荷がかかるのかもしれません。でも、じきに慣れていくと思いますよ。さてと……」
励ますように語りかけながら、ビ・シフロールはカバンの中をゴソゴソとかき回すと。自分の着ているものと同じローブを取り出した。
「念のため、替えを一着持ってきておいてよかったわ。とにかくその姿はあまりにも刺激的なので、これも身に着けてくださいね、エミレースさん」
「ありがとうございます、先生……ですが、その名はもう捨てようと思います」
輝くばかりの全裸の美女は、ありがたく黒衣を受け取りつつも、哀愁を帯びた表情で寂しげにつぶやいた。
「あら、どうしてですか? いい名前だと思いますけど」
「愚かな私は、先生のおかげでまた生まれ変わることが出来ました。よって、今後は元の人間でも魔獣でもあることをやめ、まったく別の存在として生きていこうと思うのです。それに、まずあり得ないことでしょうけれども、万が一インヴェガ帝国の追手が現れた場合、本名では何かとまずいでしょうから……」
「なるほど、そういう理由であれば納得できます。それで、どんな素敵なのを思いついたんですか? まだでしたら、不肖このビ・シフロールめが命名して差し上げましょうか? 実はくだんのマンティコアも私が新しい名前をつけてあげたんですよ。そうですね、あなたはお人形のように綺麗ですからさしずめマジンドールとか……」
「……それはちょっと怖そうなので、謹んで遠慮させていただきます」
「えーっ、せっかく考えたのに……」
自慢の妙案を速攻でボツにされて、伝説の魔女は珍しく落ち込んだ。
「それに、先生には悪いんですけれど、もうすでに心に決めている名前があるんです」
師匠の申し出をすげなく断った、もはや何者でもない女性は、ここではない遠いどこかを眺める眼付きをしながら、薄っすらと微笑んだ。
「ほう、何やら思い入れがありそうですね」
「……エナデールと名乗ろうと思います」
彼女の細く豊かな銀髪が、装着したばかりの闇のローブに宇宙を流れる星の川のように渦巻いていた。
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