カルテ223 伝説の魔女と辛子の魔竜(後編) その4

「フニャッ!」


 突如熊が、でかい図体の割には情けないうめき声を上げたかと思うと、両の前足で顔面をかばうような仕草をしたため、一同はあっけに取られた。


「な、何だ何だ一体!?」


「な……何かが熊に向かって一直線に飛んできたような気がしたんだけど、何なんだニャ!?」


「ほう、そうなのか? わしにはまったくわからんかったが……エリザス、お前さんには見えたか?」


「ええ……」


 エリザスは深い海の底から戻ったばかりのように呼吸を整えながら、正直につぶやいた。常人とは異なる彼女の魔獣の眼には、つぶさに映っていた。空気をつんざきどこかから飛んできた糸よりも細い銀の針が、王城の御前試合で的の中心を正確無比に射抜く弓の達人の放った矢のように、猛る熊の右目を刺し貫いた瞬間を。


(あの銀の針は、ひょっとして昨日村長さんの家で出された夕食で見た、あの……)


 エリザスの脳裏に、食い意地の張ったドワーフの皿から奪取した、イノシシのピンクの肉片に絡みついた滑らかな銀髪が鮮やかによみがえる。確かローガンが語っていたが、あのイノシシを捕獲したのは……


「……熊さん、私が相手をしますから、さっさとかかってきなさい」


(えっ?)


 幼少の時分より呼吸音の如く慣れ親しんだ声が、エリザスの耳朶を打つ。針が飛来してきたと推測される方向に視線を移すと、懐かしい声の主が杉林の出口に忽然と出現していた。護符師のよく着る黒いローブを身に纏った、彼女自身にやや似ている整った顔の女性が。


 但し頭に被ったフードの下から流れ出る髪の色は思い出と異なり星の煌めきのような銀色ではなく、着衣と同じ烏の濡れ羽色だった。ちなみにフードの女性の右手には、細い竹筒が短剣のようにしっかりと握りしめられていた。


「……さあ、いつでもいらっしゃい。私の客人に対して無礼は許しませんよ」


 やや薄れつつある白い霞の中に立つ漆黒の女性は、まるでそこだけハサミで切り取られたように周囲からくっきりと浮かび上がっており、強者のみが感じるすさまじい圧を大気中に放っているように、正体を隠すメデューサには思われた。そう、まるで地上最強の生物・ドラゴンにも似た……


 影の如き謎の人物は、まるで笛でも吹こうとするが如く、ゆっくりと竹筒を口元に近づけていく。


「吹き矢か……?」


 ダイフェンがボソッと呟きかけたとき、エリザスの記憶の引き出しの掛け金が一つ、脳内で音を立ててはじけ飛んだ。



 まぶしい夏の陽光を浴びて、草花が今を盛りと照り映えていた。白いワンピースを可愛く着こなしたまだ六歳のエリザスは、四つ年上の姉のエミレースとともに、家の庭の芝生に一緒に腰をおろしていた。


「今日はいいものがあるのよ、エリザスちゃーん」


 一番下の妹を猫かわいがりしている長女は、花柄の袖なしブラウス(ちなみにスカートも同じ花柄だが)の胸の辺りをそっと広げて、灰色の瞳を輝かせると、右の片眉をくいっと動かした。何か人を驚かせようとするときの彼女の癖だ。


「なーに、エミレースお姉ちゃん? 新しいおもちゃ? それとも新作のお人形?」


 無邪気な妹は蒼い目をくりくりと動かして、真剣に問い質した。エミレースは勉強事は苦手だったが手先は器用で、自分でおもちゃや人形を作っては二人の妹にプレゼントするのを趣味としていたのだ。


「ジャーン、オレンジでしたーっ!」


 姉は胸元から黄金色に輝く二つの重たげな果実を取り出した。


「あれっ、それって確か、お客様用のじゃないの?」


「いーのいーの、二つくらいばれやしないって。さ、邪魔が入らないうちにとっとと頂いちゃいましょ!」


「うわわわわわっ」


 妹思いの姉は強奪品のうちの一つを金のマリの如くポイッと放り投げ、エリザスは危うい格好でキャッチした。

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