カルテ145 グルファスト恋歌 その10

 先ほどの見事な夕焼け空はどこへやら、いつの間にか湧き出た雲に夜空は覆い隠され、月どころか星影の一つも見えなかった。街灯すらない街中の石畳の道を、ランプを持ったミルトンとマリゼブは、真ん中にネシーナを挟みながら、ねぐらに帰る鳥の如く「汗血馬の尻尾」亭へと急いでいた。


「それにしても、さっきは涙が出るほど笑っちゃったわ。まさか二人とも同じ病気で悩んでいたなんてね、フフッ」


 マリゼブはついさっきまでとはうって変わって上機嫌で、今も一人思い出し笑いをしていた。


「俺も可笑しかったよ、マリゼブ。最初に白亜の建物を目撃した時は、てっきり俺のために出現したものと早合点して、どうしたものかと考えていたのさ。まさか、君の方がさきにカミングアウトする羽目になるだなんて思ってもみなかったよ」


 ミルトンもランプに照らされた髭だらけの横顔を綻ばせる。あの後、結局彼も弾性ストッキングを履くこととなり、現在ズボンの下に装着しているのだった。門番という、それこそ立ち仕事そのものといった職業の彼は、随分前から下肢静脈瘤を患っており、そのため肌を見せるのは遊び女相手の時と、人目に隠れてこっそり行水する時だけだったのだ。幸い仕事に支障をきたすほどの症状ではなかったが、足のだるさやムズムズ感は日増しに強くなり、二カ月前に日射病で倒れたのも、それが原因の一つとしてあったのだ。


「ふたりとも、うそはよくない! かみさまはちゃーんとみてた! えっへん!」


 二人の手を握って間でぶらんぶらんしているネシーナが、偉そうに説教を垂れるため、両サイドの大人達は思わず吹き出した。


「でも、今思えばこの子のお蔭よね、お互い秘密を打ち明けられたのは」


 マリゼブが得意げな表情を浮かべる我が娘を見下ろしながら、目を細める。


「ああ、確かにあの時このアクティブなお嬢さんがなんの迷いもなく、猪の如く白亜の建物に突入してくれなかったら、ドアをくぐることすらしなかったかもしれないしな」


 ミルトンも、「にたものどーし! にたものどーし!」と節を付けながら大声を上げる、末恐ろしい五歳児の行動力に舌を巻くと同時に、感謝の気持ちを抱いていた。もはや、愛し合う二人の間の障害は、春の雪の如く淡く溶けていき、迷うべきことは何もなかった。今夜こそが、否、今この時こそが、告白の絶好のチャンスだ。


 指輪の一つも用意していなかったのは失態だが、そんなものは後でどうとでもなる。彼は腹の奥底に力をためると、ごくりとつばを飲み込む。白亜の建物と小悪魔的な少女が授けてくれた、千載一遇のまたとない機会をむざむざと逃すわけにはいかない。


「マリゼブ、あの、俺は……」


「待って、ミルトン! 誰か来る!」


「えっ!?」


 意を決して話しかけたミルトンに対し、マリゼブは自分のぽっちゃりした唇に人差し指を当てる。出鼻をくじかれ、精神的ダメージを受けた愛の戦士ことミルトンだったが、気を取り直して耳をそばだてると、彼女の言う通り、微かに石畳を擦るような不協和音が、彼らの靴音に混じって聞こえた。


「だ、誰かがついてきているのか!?」


「元夫のブレオよ!あいつ、靴屋の腕を悪用して、あまり足音がしない特殊な靴を自分専用に仕立てているって、昔話していたの!」


 マリゼブが歩みを止めずに、ネシーナの頭越しにミルトンに囁く。まるで死神の衣擦れの様な不気味な音は、徐々にリズムを早め、近付いているのは明らかだった。二人はさりげなく顔を見合わせる。お互い笑みは消えており、抜身の剣のように緊張した面持ちへと変わっていた。


 目指す宿屋はまだ遠い。道の両側は折悪く高い塀が連なっており、どちらも静まり返っており、助けを呼んでもすぐに誰か来てくれそうな雰囲気ではない。マリゼブの唇が音を発さずに「どうする?」と形作る。リントンはそれに対し、ただ頷き返すに止め、非常にのろのろした動きでネシーナを握っていた手をそっと離すと、電光石火の早業で、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。同時に、先ほどの、ホンダという医師の声が脳裏をよぎる。


「ほう、マリゼブさんにはそういった込み入ったご家庭の事情があるんですか。そいつはなかなか厄介ですねえ。よし、一つ策を授けましょう……」

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