カルテ146 グルファスト恋歌 その11

「イフェクサー!」


 ミルトンがズボンのポケットから取り出したレモン色の護符を背後に向け、解呪の詠唱を唱えた瞬間、「ぐわっ!」という男の悲鳴が闇の奥から響いた。塀に張り付くヤモリのような人影が、漆黒を切り取る眩い光に晒されて慌てふためいている様が明らかに見えた。


「これ、持ってて!」


 ランプをマリゼブに押し付けると、ミルトンは未だ光輝を放つ護符を不審者の方に突き付けながら、素晴らしい脚力を駆使して、石畳に座り込んだボロを着ている汚い中年男にたちまち駆け寄った。


「ぬわっ、何をするんだてめえ!」


「うるさい!」


 徐々に輝きを失いつつある護符を道端に投げ捨てたミルトンは、問答無用とばかりに男の背後に回って両手を後ろ手に押さえつけた。


「お前こそ別れた女房の後を未練ったらしくコソコソつけて、一体何をするつもりだったんだよ、靴屋のブレオ!?」


 ミルトンも男の酒臭い怒鳴り声に対し、職場の先輩から教わったドスを効かせた声で応える。王城守護の衛兵は、舐められるわけにはいかない時があるのだ。


「ち、畜生! 全てはお見通しってわけかよ……」


 急に男の抵抗が止み、声からも力が抜けていくのがわかる。


「ブレオ! やっぱりあんただったのね! もう私たちに近づかないって約束したじゃない!」


 ランプを手に持ったマリゼブが、キョトンとしているネシーナを後ろにかばったまま、ゆっくりとこちらに向かってくる。


「聞いてくれマリゼブ! 俺は別にお前たちを襲ったりしようと思ったわけじゃねーよ! ただ、お前たちの日々の暮らしが気になっていたし、お前がどんな馬の骨と付き合おうっていうのか、心配していただけなんだ! こいつだって、どんなろくでなしかわかったもんじゃねーだろうが! お前にゃ男を見る目は皆無なんだしよぉ!」


「やれやれ…」


 急に馬鹿らしくなったミルトンは、掴んでいた男の手を離すと、大げさに肩をすくめた。


「確かに俺は聖人君子までとはいかないが、仕事は毎日きちんとこなし、少なくとも酒におぼれて人に暴力を振るったりはしないぞ、どこかの誰かさんと違ってな」


「う、うるせえうるせえうるせえ! 女房や子供と別れた後、さすがに反省して酒を断とうとしたけれど、やもめ男の一人暮らしの憂さ晴らしにゃ、結局のところ酒しかなかったのよ。幸せいっぱいで希望に胸と股間を膨らませている貴様如きに何がわかるってんだよ、うう……」


 今にも腐りそうなほど熟しきった柿に似た臭いを口から吐きまくる男の声は、いつしか小さくなり、嗚咽混じりになっていた。まるで母親に叱られた子供のように目尻に涙を浮かべ、肩を震わせ、首を項垂れていた。


「もとパパ! あいかわらずすっごくさけくさい! からだもふいてないでしょ! にんげんのくず! ごくつぶし! とっととかえってめしくってくそしてねろ!」


「うっ」


 ネシーナの言葉が致命の剣のように哀れなブレオの心臓を貫き、容赦なく追い打ちをかける。今までそれ程恵まれた人生を送ってきたとはお世辞にも言えないミルトンも、いくら家庭内暴力を振るった悪人だとしても、ここまでのひどい扱いに対しては、さすがに憐憫の情を覚えずにはいられなかった。


「すまなかった、ネシーナ……あの時は殴ったりして、本当に悪かった。酒に酔っていただけなんだ。この通りだ、許してくれ。父ちゃんは、今でもずっと、お前たちと一緒に暮らしたいと思っているんだよ……」


 星も月もない闇夜の底で、男の懺悔する泣き声だけが、金木犀の香りとともに、夜風に紛れて流されていった。

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