カルテ147 グルファスト恋歌 その12
「本当に心の底から酒をやめたいと思っているのか、ブレオさん?」
ミルトンが、わずかばかり声のトーンを和らげつつ、酒焼けして真っ赤になっている男の顔を覗き込んだ。
「あったりめーのこんこんちきよ! でも、どうしてもやめられねーんだよ! 一、二日ならなんとかごまかせるが、三日も飲まねーと、もう我慢出来ねーんだ! 代わりに他の飲み物もいろいろ試してみたし、有名な呪い師を頼ってみたりもしたけれど、糞の役にもたちゃしねー! それとも貴様に、何かいい方法があるとでも言うのかよ、ああん?」
「いい方法と言えるかどうかはわからないが、酒が飲めなくなる方法ならある。これだ」
ミルトンは再びポケットに手を突っ込むと、今度は小さな白い薬瓶を取り出し、駄々っ子のように不貞腐れるブレオに突きつけた。
「な、なんでえそれは!? 毒かなんかか!?」
「これは酒に弱くなる、シアナマイドという薬だ。これを飲むと酒豪の男がたったコップ一杯のエールで朝までひっくり返ってしまうそうだ。確かコーシュヤクっていう種類の薬で、汗とあるデブヒトデがどうだとか……」
ミルトンは、先程白亜の建物で本多医師から受けた説明を懸命に思い返しながら、付け焼き刃の知識を披露した。
「あせとあるデブヒトデじゃなくって、アセトアルデヒドダッスイソコウソのはたらきをそがいするんだよ、ミルトン!」
「そ、そうか、サンキュー、ネシーナちゃん。しかしよく覚えているなあ……」
にわか講師は頼もしい援護射撃を受けつつ、こっそり冷や汗を拭った。
「そんな夢みたいなお宝が本当にあるのかよ! 是非ともくれ! 頼む!」
「ただし、これを使うことは身体にとって危険でもあるんだ。飲酒しなければ何ともないが、飲めば下戸のように嘔吐し続けながら苦しむわけだからな。その覚悟がお前にあるのか、ブレオ?」
「……」
一瞬押し黙ったブレオは、脂ぎった赤ら顔の眉間にしわを寄せ、何かを真剣に考えている様子であった。しかし遠くのランプに淡く照らされた元妻と娘の方を見ると、決心がついたのか、こう叫んだ。
「よし、俺も男だ! 今からこの薬を一服した後は、生まれ変わったつもりで酒は一滴も飲まねえ! 森羅万象と全ての神さんにかけて約束する! そしていつの日か、お前たちに再び認めてもらう! その日まで、あばよ、マリゼブ、ネシーナ!」
そのままシアナマイドの薬瓶を荒っぽく引っ掴むと、振り返りもせず走っていき、闇夜の中に溶け去るように消えていった。多分近くにランプが隠してあったのだろう、やがて遠くにチラチラとオレンジ色の灯火が瞬き、それも朧になっていった。
「これで……よかったのか?」
ミルトンはこちらに向かってきたマリゼブに、自分自身に問いかけるようなつぶやき声で尋ねる。
「ミルトン、ありがとう。元旦那の世話まで焼いてくれて。どうしようもないろくでなしの人間の屑だったけれど、それでもこの子の実の父親でもあるし、更生するチャンスは与えてもいいとは思ったのよ。別に生活態度を改めても、よりを戻すつもりなんてないけどね」
「そうか……もっとも自分も、あのホンダって医者の言った通りにしたまでだし、貰った護符や薬を使っただけで、俺の手柄じゃないよ」
「それより、あなたこそ本当によかったの? 後であいつに逆恨みされるかもしれないわよ」
マリゼブは気遣うように、ランプに照らされ揺らめく恋人の影法師を見つめながら話しかけた。
「なあに、その時はその時だよ。それよりも、その、大事な話があるんだ。実は……」
紆余曲折を経てようやく本題に入ろうとした時、ネシーナが横から、「きにいったミルトン、うちにきてママをファックしていいぞ!」とほざいたので、ミルトンは再び声を詰まらせる羽目になった。
「こら、ネシーナ! どこでそんな悪い言葉覚えたの!? またお祖父ちゃん?」
「ちがう! さっきはくあのたてものであそんでいるとき、はげあたまのおいしゃさんがこっそりおしえてくれた! こういえばミルトンがママとけっこんできるって!」
「「……」」
絶句する大人二人をよそに、どこかから梟の夜鳴きが微かに聞こえてきた。
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