カルテ236 伝説の魔女と辛子の魔竜(後編) その17
「ママ―! どこにいっちゃったの、ママー!」
まだようやく三歳になったばかりの、小動物のように愛くるしいピートルは、村長宅二階の寝室のベッド上でくしゃくしゃの金髪を振り乱し、身も世もなく泣き続けていた。傍には彼の祖母であり、ローガンの母でもあるしわくちゃの老婆がついており、必死に少年をあの手この手でなだめすかしていたが、見たところ何の成果もなく、途方に暮れていた。
「数日前に妻を毒竜に襲われ亡くして以来、ずっとこの状態だそうです……」
本多医師とセレネース、そしてエナデールの三人を案内したローガンが、申し訳なさそうにうつむく。
「それはそれは、お気の毒に……」
そうつぶやいたきり、普段は諧謔に満ち溢れる本多も言葉を詰まらせ、目を伏せた。後ろでやり取りを傾聴していたエナデールも、哀切極まりない子供の姿に衝撃を受け、悲痛のあまり胃の腑が張り裂けそうになった。何しろ少年の愛する母親は、まさに彼女の胃袋に収められてしまったのだから。
「しかし弱りましたね。これではとても診察どころじゃありませんねー」
本多は苦り切った表情で腕を組み、片足のつま先でトントンと床を打ち鳴らす。
「すいませんねえ、普段はとても聞き分けの良い子なんですが、この通り大好物の無花果にも手を付けようとしないんですよ」
腰の曲がった祖母がおずおずと、皺だらけの手でベッドの脇に散らばった小さな皿や紫色の果実を指す。多分払いのけられたのだろう。
「先生、こんな時こそその甘寧邪知に長けた頭脳をフル活用して、得意の頓智でなんとかしてください」
セレネースが本多の頭部に視線をやりながら、サラッとひどいことを述べる。
「そんな、一休さんじゃあるまいし、簡単に出来ませんって! でもこのままじゃ先に進みませんしね。うーむ……」
医師はしばしの間眉間に皺を寄せ呻吟していたが、ふと表情が明るくなった。
「よーし、それじゃここは一つ、坊ちゃんに面白いものを見せてあげましょう!」
言うが早いか、床に転がっている小皿をひょいと拾い上げたかと思うと、自分の額に押し当てた。
「ジャーン、診察中のお医者さん!」
「……」
その場の誰一人くすりとも笑わず、氷点下の沈黙が午後の室内に満ちた。
「先生、そのネタはこちらの世界の方は誰も分かるわけがありませんし、そもそも歌舞伎の仮名手本忠臣蔵七段目祇園一力茶屋の場のお座敷遊びのパクリです」
「うっ」
せっかく披露した会心のギャグを冷たくあしらわれ、本多は床につきそうなくらいがっくりと肩を落としたが、元から打たれ強いためか、ものの数秒で立ち直ると、
「よーし、ならば今度はお皿を頭に乗っけてザビエルさん……」
「どんだけ強心臓なんですか先生。だからわからないって言ってるでしょう。あと、それも忠臣蔵のパクリです」
「じゃ、じゃあ、カッパさんってことで……」
「せめてユーパン大陸に生息するモンスターに例えてください」
こらえ切れなくなったエナデールもは、もはやグダグダな夫婦漫才と化した駄目医師たちをかきわけて一歩前に出ると、泣きじゃくるか弱い幼子をそっと抱きしめた。
「……大丈夫。いい子だからもう泣かないで、ピートル」
やや高めのソプラノの、ゆったりとした優しいマザリングボイスで、耳元で囁きかける。自然とそうせずにはいられなかったから。魔獣と化し寄る辺のない自分と、最愛の頼れる人を失った幼い命とが、彼女の中で重ね合わさる。内から溢れ出す精一杯の愛情で、エナデールは少年を慰撫しようと努めた。
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