カルテ135 猫娘とバイオリン弾き その9
「えーっ、僕の方の世界で今から百年ほど前に、マロリーさんとワイスさんっていう二人のお医者さんが、お酒を飲んだ後、嘔吐や吐血を繰り返す患者さんを診察して発見された病気をマロリーワイス症候群っていいます。これは、嘔吐のし過ぎで胃の腹圧が上がっちゃって、入り口の噴門部ってところにすごい力がかかって、粘膜が縦に裂けて出血しちゃうって仕組みで生じます。でも、なぜかあまり痛くはないんですよね。
中年男性に多い病気なんで、あんまりあなたとは関係ないかもしれませんけど、酒飲みや妊婦にも起こるんで、知っておいて損はないと思いますよー。魔獣が妊娠するのかどうかは不勉強なんで知りませんけどねー。
さて、そいつの治療法ですが、血管から出血している場合は、内視鏡でクリップしたり焼いたりして出血を止めるんですが、そこまでひどくなければ薬だけ飲んでおけばいいと思いますよ。ちょうどこの後エリザスさんにお渡しする予定のプロトンポンプ阻害薬……略してPPIっていう胃酸分泌抑制薬が、マカロニホウレン荘、じゃなかったマロリーワイス症候群によく効きますから、もし疑わしい場合はそいつを飲んでくださいねー。
おっと、無駄話ばっかりいっぱいしちゃってごめんなさいねー。しばらく石になっていたもんで、その分喋り倒したくなっちゃったんですよー」
「……存外無駄でもなかったわ、ホンダ先生。本当にありがとう」
エリザスは、ダイフェンの喉元から粘液を滴らせる黄金の蛇を引っこ抜きつつ、記憶の中の医師に深く感謝した。その後、蛇を布きれで拭き、ダイフェンに秘蔵の胃薬を内服させ、ベッド周りの後片付けをして、ついでに部屋もきれいに掃除して、血の一滴すらも見当たらないようにピカピカに磨き上げたエリザスは、フーッと一息いれると、気合一閃、魔獣から美女の姿に早変わりし、「よーし、もう目を開けてもいいわよ、皆の衆」と、未だに瞼を固く閉じて大人しくしていた他の三人に、女王陛下の如く告げた。
「な……なんか、胃の中が、文字通り裏返ったような気がしたぜ、ゴホッ」
ダイフェンが、吟遊詩人の渋い歌声もどこへやら、瀕死の老人のようにしわがれた声で、咳を交えながら弱々しくつぶやく。
「まあ、吐血も止まっておるし、薬を飲んで少しは楽になったようだし、良かったではないか。しかしそのワシよりもひどい声だと、当分弾き語りはお休みかのう」
「なーに、今度こそ自分が謡うニャン! ダイフェンは隅っこでバイオリン弾いてるだけでいいニャン! うちの方がよっぽど名器だニャン!」
「……名器って言葉使うなバカ野郎、ゴホッ」
「ランダ、歌うのはいいけどお願いだからネコブシ爺さんの歌はやめてちょうだい!」
「ハハハハハハ!」
賑やかな笑い声が、外の祭りの騒ぎに負けじと、部屋中に響き渡った。
「……ってすっかり忘れるところだったわ! ほら、ダイフェン、あれよ、あれあれ! あれについてとっとと教えなさいよ!」
ボケ老人の如く「あれ」を連発するエリザスは、未だにベッドに臥床している哀れな吟遊詩人に襲い掛かった。
「く、苦しい……首を絞めるな、魔獣女!」
「あ、あら、ごめんなさい、つい……」
いろいろあってキャパオーバーし、一瞬テンションがヒートアップしアゲアゲ状態になっていたエリザスはすぐに我に返ると、襟首を掴んでいた手を放し、素直に謝った。もう、酒の席での失敗は正直こりごりだった。
「ダイフェンの命を助けたいのか奪いたいのかどっちかにするニャ!」
「本当に断酒した方がよいかもしれんのう、エリザスよ。もっとも、ワシも人のことは言えんが……」
「うう……蛇になって穴掘って冬眠したくなってきたわ」
「もういいさ……だが、ようやく思い出したよ。以前噂で聞いたんだが、ビ・シフロールっていう名前の魔女が、銀色の邪竜を退治したって話があるんだよ」
「それ、私も少しだけ耳に挟んだことがあるわ。山奥の村だとしか聞いていないけど……」
自責の念に駆られて落ち込んでいたが何とか立ち直ったエリザスは、ダイフェンの言葉に、記憶を呼び起こされた。伝説の魔女の英雄譚の一つだが、マンティコア退治同様、詳しい内容はほとんど知られておらず、真偽のほども定かではないため、エリザスは今までそれについて考察したことすらなかった。
「その邪竜っていうのが、どうやら女の顔をしていたらしいっていうんだよ」
「えーっ!?」
エリザスはショックのあまり突如メデューサと化し、その場にいた他の三人は、ピキーンと固まった。
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