カルテ22 ルーン・シーカー その6

「お大事に」


「おう、またな、無愛想なお嬢ちゃん!」


「多分もう二度と来れないと思いますよ……」


 まったく心がこもって無さそうな受付嬢の挨拶に見送られ、フシジンレオとシグマートは、本多医院を後にした。外はまだ黒雲が立ち込め、雨は止む気配がなく、心なしか風が強くなっている気もする。しかし、完全復活し生まれ変わったように爽快な老人と、それを見て心から安堵した少年の二人にとっては、むしろ先程とは違って風雨も心地よく感じられるほどだった。あれほど重症だったものをたちどころにここまで回復させるとは、あの一見諧謔に満ちた道化師のような男は、やはり凄い人物だったのでは、とシグマートは思い返し、見納めに後ろを振り返った。


「あっ!」


 彼の瞳は恐怖の色に染まった。白亜の建物はいつのまにか完全に姿を消しており、代わりに天と地上を結ぶ長大な左回りの渦が、見る見るうちにこちらに迫っていた。


「こりゃやばい! とっととずらかるぞい!」


 少年の声に、同じく竜巻の存在に気づいた浮かれ老人も、気を引き締めると急いで大岩で出来た家に向かって歩を進めた。だが、いくら胸痛が治っても、悲しいかな、左足の古傷は変わらないため、歩行困難も変化なく、徐々に背後の絶望との距離は縮みつつあった。


「フシジンレオさん! 僕に負ぶさってください!」


「いや、そんなことをしても最早逃げ切れまい……ここは吾輩に任せたまえ、坊主! 喝っ!」


 老人は突如虚空に向かって一喝したかと思うと、纏っていた黒ローブを脱ぎ捨てた。


「ゲボォっ!」


 左足にストッキングを装着したのみのフシンジンレオの裸姿を一目見て、シグマートは口元を押さえた。拷問だ!


「何考えてるんですかいったい!? とうとうボケましたか!? 早く逃げ……」


 そこまで言って、少年はその場に彫像のように凍り付いた。老人の貧相な左足が膨れ上がったかと思うと、丈夫な弾性ストッキングがメキメキと音を立てて千切れとんだのだ。その下に覗くは血の滴りそうなほど真っ赤な毛の生えた獣の後ろ足。


「そ……そんな馬鹿な!?」


 左足ばかりではなかった。フシジンレオの身体は見る見るうちに数倍にも盛り上がり、全身を赤毛に包まれた獅子へと姿を変えていく。いや、よく見ると獅子そのものではなく、尻尾は何本もの鋭い棘の生えた瘤状になっており、いつの間にかその背中には、一対の真っ黒な蝙蝠の翼が生えていた。但し、顔面のみは老人のそれであり、一回りほど大きくなっただけであった。シグマートは、この生物と出合ったことはかつて一度もなかったが、その存在については図鑑や伝承でよく聞き知っていた。


「マンティコア……!」


 ライオンの体とサソリの尾と蝙蝠の翼、そして老人の顔を持つ、伝説上の魔獣。森に潜み人を喰らうと言われる、恐るべき怪物である。


「なにを呆然として突っ立っておる! 早く乗れい!」


 化け物が口を利いた。嵐をも遮る大声で我に返った少年は、一瞬迷うも、彼の者の言う通り、今を生き延びる道はそれしかないと決心し、恐る恐る赤獅子の後ろ足をよじ登り、背中の上に達した。


「行くぞい! しっかり掴まっとれ!」


 異形の獅子は気炎を吐いて咆哮すると、漆黒の翼を広げ、地を蹴り、颯爽と空へと駆け上がっていった。



「昔、北のインヴェガ帝国に、一人の衛士がおった。彼は真面目というほどでもなかったが、妻と娘を愛する家庭的な男で、仕事は勤勉にこなしておった。しかし、彼はある時重大なミスを犯してしまい、罰として人体実験に使用されることになってしまった。泣いて許しを請う彼だったが、皇帝ヴァルデケンは無情にも彼を極秘施設に送り込み、彼の家族には、彼は職務中に死亡した、とのみ伝えられた。


 施設は、様々な生物を人工的に生み出す恐ろしい場所だった。スフィンクスやメデューサ、ミノタウロスなど、伝説でしか聞いたことのない怪物たちが檻に閉じ込められていた。そこで彼は、ライオンやサソリや蝙蝠、そして悪魔と魔術的に結合させられ、おぞましい魔獣へと変貌を遂げ、精神に異常を来した。つまり、読み書きを含めた過去の記憶の大部分を忘れ、飢餓感と攻撃性、そして人間を食べたいという欲求のみに支配されるように成り果てたのだ。だが、愛しい妻子の顔だけは記憶の最も深いところに刻み込まれ、誰にも消すことは出来なかった。唯一、彼女たちに会いたいという想いのみが、辛うじて怪物を人間の側に繋ぎ止めておった。


 ついにある日彼は、牢獄を破って警備兵を殺し、施設を脱走して家族の元へと向かった。だが再会は、悲劇でしかなかった。妻や娘には人喰いの魔獣の正体が彼だとわかるわけもなく、悲鳴を上げながら逃げ惑い、助けを呼んだ。駆けつけた衛士たちの攻撃を受けて逆上し我を忘れた獣は、尻尾の毒針を闇雲に周囲に発射した。そしてその結果どうなったか……わかるじゃろ?」


「……」


 マンティコアの背の上で、シグマートは押し黙ったまま、こっそり涙を流した。

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