異世界医院

モロ平野

カルテ1 白猿の爪痕 その1

 護符魔法が発達し、魔獣が跳梁跋扈するユーパン大陸には、いにしえからの言い伝えがある。


 曰く、「汝、身体もしくは心が病いに侵されし時、十字の印刻まれし白亜の建物を見るであろう。ただし、それは汝が生涯に一度きりなり」


 人間、エルフ、ドワーフ、イーブルエルフ、獣人族、リザードマンなど、あらゆる種族の者たちはこの伝説を信じ、病魔に蝕まれた者は、その出現をこいねがった。


 その建物を実際に訪れたことのある者は、そこを次のように呼んだ。「本多医院」と……。



 森がざわめいていた。人の数十倍の年齢を経た古代樹の生い茂る密林を吹く風は、血と殺戮と絶望の臭いを孕んでいた。


 見上げるばかりの巨大な木々の梢からわずかに漏れ落ちる陽光が一匹の白い猿の屍体に降り注いでいた。


 身長2メートル以上はあろうか、朱に染まったような赤ら顔は苦痛で歪み、カッと見開かれた三つ眼は顔面以上に真っ赤で憎悪に満ち満ちていた。


 口からは鋭い牙が覗き、手は足に比べて異常に長く、尾の全長はそれ以上で、まるで鞭のようだった。


 そして腹部には一本の木製の矢が深々と突き刺さり、夥しい量の血が一面に流れ出ていた。


 猿から10メートルも離れていない樹の根元に、一人の萌葱色のフードを被った人物が座っていた。


 全身を同色のマントで覆っているため、男女の判別もつかないが、立派なクロスボウを傍らに横たえている。


 その人物は荒い息を吐きながら、フードをバッと捲りあげた。


 光り輝くような白金の長髪をした、大理石のごとく白い肌の、線の細い美女がそこにいた。


 その双眸は倒れている猿と同じく真紅の輝きを放ち、更に両耳は草の葉のように細長く伸びて先は尖っており、人間でないのは明らかだった。


「くそ、血が止まらん……」


 彼女はマントから突き出した左手首を、同じく突き出した右手でさすった。


 左手を覆う長袖の裾は手首から数センチ下で鋭利に裂け、傷口からドクドクと血が流れ続けている。


 彼女は肩にかけた革製の鞄からボロ布を取り出すと、右手だけで苦心して左手首に巻きつける。


 しかし出血は止まる気配を見せず、徐々に布を赤黒く染めていった。


「ここじゃ駄目だ……確か近くに龍火場があったな」


 彼女は独り言をつぶやくと、クロスボウを握りしめ、ちらっと猿を振り返ると、視線を前方へと戻し、木々の間の獣道を進み始めた。



 彼女の名はミラドール。森に住み、自然を愛する、誇り高き妖精族の一員だ。もっとも妖精族は複数人で行動する場合が多いが、彼女は常に一人だった。


 木々の中で孤独に暮らし、野草を採ったり獲物を狩って日々の糧とする、それが日常だった。


 必要以上の無益な殺生はしないし、攻撃的な性格でもない。


 ただし、故郷のベルソ村を襲った宿敵の白猿に対しては別だった。


 彼女はずっとこの魔獣・三つ眼猿ヴァナラを追い続け、旅をしていた。


 ようやく痕跡を発見して待ち伏せしたものの、気づかれ接近戦となり、目くらましの光の護符を使用し咄嗟に逃げ、距離をとった後で矢を放ち、なんとか射殺すことに成功した。


 だが最初に受けた爪の傷が、こんなにも治りが悪いとは想像だにしなかった。


 それほど深いわけではなく、むしろかすり傷程度であり、放っておけばいいだろうとたかをくくっていた。


 しかし現に血は止まらず、おかげでめまいやふらつきまで生じている。


 何か毒でも持っていたのだろうか? ヴァナラにそんなものがあるとは聞いたことがないが……。


 確か一族の中にも、原因不明の病で出血が止まらず死亡した者がいた。


 まだ幼かった彼女は、長命な妖精族には珍しい死というものを間近に見たことを、よく覚えている。


(とりあえず傷口を洗えばよかろう。龍火場には確か湧き水もあったはずだ)


 ミラドールは疼く左手に耐えつつ、荒い息を吐いた。


 夏の暑い日差しは木立に遮られここまで届くことは殆どないが、昼が近づくにつれ上昇する気温は形のよい額から汗を噴出させた。


 今から向かう龍火場とは、このギャバロンの森の中にぽっかりと空いた草地のことで、龍が火を噴いた跡のため木が生えないなどの言い伝えがある、不思議な空間だった。


 龍火場の奥にはいつでもコンコンと湧き出る清涼な泉があり、聖なる力を秘めていると言われていた。



「な、なんだ、あの建物は……!」


 ようやく木々の途切れる場所までたどり着き、暗いトンネルから抜け出した時のように、明るい正午の太陽の光に目をすがめたミラドールは、そこに信じられないものを視認して、魂が凍りつくかと思った。


 何もないはずのその場所に、白い箱のごとき、二階建ての建造物が存在しているのだ。


 石造りのようにも見えるが、それにしては建物の表面には切れ目がなく、窓には透明な板がはまっている。


 あれは確か、ビドロと呼ばれる貴重なもので、一枚でも相当な値打ち物だと人間から聞いたことがある。


 しかし、かといって、王宮や神殿のような華美な装飾が建物にあるわけでもなく、むしろ砦のように質実剛健な印象を受けた。


 ビドロ製のドア付近には緑色の看板らしきものが壁に張り付いているが、「本多医院 内科、精神科 診療時間:月〜金曜日 午前:九時〜十二時 午後:一時半〜五時 土曜日 午前:九時〜十二時 休診:日曜日、祭日」と、まったく見たこともない文字が書かれており、読むことが出来なかった。


 しかしそこに十字の白い印が描かれているのに気づき、ミラドールは突如記憶の蓋が開かれるのを感じた。


「まさか、これが母様から聞いた、『白亜の建物』だというのか!?」

 

 ずっとおとぎ話だと思って疑わなかった幻の異界が、今、目の前にあることを、彼女はまだ信じることが出来なかった。


 しかしこの場からは強い魔力を感じるし、生涯に一度しか出会えないというのであれば、今この瞬間しか中に入る機会がないということになる。


 もし普通の状態であれば、こんな怪しげな場所に足を踏み入れるつもりは毛頭ないが、出血が止まらず、足元も定まらない現状では、藁にもすがりたい気持ちがあるのも確かだった。


「……ひょっとして、私の心が呼んだとでもいうのか?」


 建物を見据えながら逡巡しつつも、彼女はいつの間にかドアに手をかけていた。

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