カルテ89 ハイ・イーブルエルフの密やかな悩み その6

 突如、白衣を着たモジャモジャ頭の貧相な男が室内に乱入してきたため、イレッサは思わず呪文を唱えて攻撃魔法をぶっ放しそうになった。


「だ、誰なのよ!?……あらっ、でもあなたって、ひょっとして……お医者様?」


 つい先ほど調べていた、壁画に描かれた人物が脳裏をよぎる。


「ピンポーン! 正解者は異世界にご招待します〜ってもう来てますね。失敬失敬。自己紹介が遅れてすいませんが、僕は当院の院長を務める本多と申します。あまりにもヒマなので、つい早めに来ちゃってごめんなさいね〜。作業中にかかわらず失礼しました〜」


 最後の言葉は、赤毛のセレネースに向かってかけられたらしい。


「早めに来たのなら、無駄口を叩かずとっとと顕微鏡を覗いてください、先生」


 思いやりの欠片も無さそうな看護師は、ビドロで出来た小さな長方形の板に何かの液体を器具で注入しながら、振り向きもせずに命を下した。


「んも〜、ちょっとは説明させてよ〜。えーっと、何故顕微鏡を使うのかといいますと、この検査は皮膚真菌検査というもので、あなたの皮膚の下にかくれんぼしている真菌を探すためのものだからですよ」


「……シンキン?」


「あ〜っ、すいません。そこから話さないとダメでしたね。いいですか、我々及びあなたの住む世界は、どちらも目に見えない小さな小さな生物がそこいら中にウヨウヨ存在しておりまして、時に我々の体内に侵入して、いろいろな悪さをします。これがいわゆる感染症ってやつですね。真菌っていうのはその微生物の一つで、まぁ言ってしまうとカビの一種です」


 男は吟遊詩人よろしく、不思議な物語をまるで実際に見てきたかのように滔々と話した。


「でもそれが、あたいの足が痒いのと何の関係があるのよ?」


「大アリ名古屋のジャイアント・アントですよ、イーブルエルフさ〜ん。それこそ、百億パーセント白癬菌っていう真菌の仕業でまず間違いないと思うんですよ〜。白癬菌は水虫っていう恐るべき不治の病いの原因菌でして、人から人にうつり、身体中のいろんなところに住み着きます。こいつらは温かくて湿っぽい場所が大好きでしてね〜、いわゆる高温多湿な環境ってやつですか? 足の指の間とか、特に好条件の物件になるわけですよ」


「はぁ……」


 元来話好きのハイ・イーブルエルフも、この時ばかりは医師の怒涛のごとき多弁ぶりに圧倒され、生返事をするのみだった。


(それにしてもこのホンダって人、話し方とかあたいと少し似たところがあってなんだか嫌ね……同族嫌悪ってやつ? とにかく彼が、あの地下遺跡の壁画のモジャモジャ頭と同一人物だとしたら……二千年以上も生きているってわけ!?)


 頭の中で様々なことを考察しつつ、イレッサは今しばらく黙って彼の御高説を賜わることとした。


「そもそも白癬菌が足に感染し発赤や水泡を作るものを水虫っていうわけですが、身体の部位ごとに呼び名が異なり、股間の場合はインキン、頭の場合はしらくもやケルズス禿瘡、爪は爪水虫、その他に出来るものをたむしといいます。昔からこちらの世界には、『他人のふんどし……下着を借りて相撲……格闘技をするな』といったようなことわざがありますが、ある程度うつりやすいことがわかっていたのかもしれませんね〜。ま、僕の勝手な意見ですけど。おっ、いたいた伊丹十三〜っと」


 ベラベラと喋りながらも、飄々とした医師はセレネースが作製したプレパラート標本を、顕微鏡のステージにクリップで留めてセットし、なにやら鼻息を荒くしながらレンズに食い込まんばかりに目をくっつけて見入っている。


「こりゃ〜間違いない。大当たりのドフラビンゴですわ〜」


「な、何が見えるのよ!? あたいにも貸してよ!」


 早くも無言に耐えられなくなったイレッサは、一人楽しそうにガチャガチャ焦点ハンドルをいじっている本多の元に駆け寄った。


「いいですよ。元はといえばあなたの物ですしね〜。ほら、どうぞ! これが噂の真菌ですよ〜」


 本多は「どっこいしょ」とわざわざ声に出して椅子から立ち上がると、イレッサに席を譲ってくれた。


「あなたがやっていたように、この筒の先を両目で覗き込んだらいいのね? なんかやけに眩しいんですけど、いきなり失明したりしない?」


「まっさか、そんなドラゴン紫龍じゃあるまいし……っていっても知りませんよね。大丈夫大丈夫。怖がらず思う存分堪能してください」


 モジャモジャ男は意味不明なことを口走りながらも、優しく顕微鏡初心者のハイ・イーブルエルフに指導した。


「よ〜し、いくわよ〜!」


 まるで初めて水に顔をつける幼児のように、恐る恐る、少しづつ、彼は褐色の顔面を接眼レンズに近づけていく。


 そこには、百年を超える歳月を過ごしてきた彼にとっても体験したことのない世界が広がっていた。

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