カルテ90 ハイ・イーブルエルフの密やかな悩み その7
最初はあまりの眩しさに目がくらみ、真っ白にしか見えなかったが、徐々に目が慣れてくると、そこにはまるで光で出来た果てしない大海原がどこまでもどこまでも続いており、所々に泡やゴミのようなものが漂っていた。
「すごい……! これってどういう魔法なの?」
「魔法じゃなくて科学ってヤツですけどね。レンズとレンズを組み合わせ、更に下から光で照らして視認できるように工夫されているんですよ」
「よく考えられているのね〜。でも、どれがシンキンなのよ? なんか屑しか見えないけれど……」
「あれあれ、ちょっとずれちゃったかな? じゃあ、この台の上に乗っている小さな板を少しづつ動かしてくださいね〜」
「……こう?」
本多の手ほどきによって、元来器用で飲み込みの早いイレッサは、徐々に顕微鏡の操作に習熟していった。
「なるほど、これを右に動かすと、視界が左に流れるのね……面白いじゃないの。さて、獲物はどこかしら……って、キャァっ!」
ミクロの海を順調に探索していた彼は、急に今まで出会ったことのない変わったものに出くわしたので、つい悲鳴を上げてしまった。
「な、なによ、この長くてウネウネしたものは……! あたい、蛇だけは絶対的に受け付けないのよ! まだとっても小さい頃に、夜中におしっこしてたら、可愛いお◯んちんを、蛇にカプって噛まれちゃってから、大の苦手なのよ〜!」
「……」
セレネースは、氷の様な表情を浮かべたまま、くるりと向きを変えると音もなく部屋を出て行った。
「な、なんて聞くに堪えないひどい話だ……! なるほど、あなたの性癖が歪んだきっかけはそこら辺にありそうですね」
腐れ医師は極めて真面目な顔をしながらも説明を続けた。
「大丈夫です。これは蛇なんかじゃなくて、菌糸と呼ばれる白癬菌の身体なんですよ。病変部の皮膚の一番上の層……角層を苛性カリ溶液というものをかけてドロドロに溶かし、その後に残ったものを今観察しているわけです。白癬菌はそれくらいじゃなんともないですからね。これがいわゆる皮膚真菌検査ってわけです」
「へえ〜、こんな形の生物が皮膚の中に住んでいるってことね。そう考えるとなんだかすごいわ〜。ふ〜っ」
医師の話を聞いてやや落ち着いたイレッサは、股間をモゾモゾさせるのをやめて、息を吸い込んだ。
「初めて顕微鏡で植物を見た人も、小さな部屋みたいなのがいっぱいあるのに驚いたっていいますからね。ミクロの世界はまだまだ謎に満ちていて面白いですよ〜」
「ふ〜ん、とってもファンタジーな感じね……」
急にロマンチックモードに移行した彼は、瞳を乙女色にキラキラと輝かせ、さっきとはうって変わって白癬菌に熱い眼差しを送った。
「ファンタジーなのはどっちかというとあなた方の方ですがね〜。さて、そろそろいいですか?」
「待って! ハクセンキンの近くにもう一種類変なものがいるんだけれど、これって何なの?」
本多に教わった方法で、ステージ上のスライドグラスをあっちこっち動かして、見る場所をいろいろ変えていたイレッサが、突如片手を上げて本多を制した。
「変なもの? はて、溶け残った組織片ですかね〜。一体どんな形状のものですか?」
「なんだか二匹の細長い奴らがウネウネと絡み合って螺旋状になっているものよ。蛇とは明らかに異なるし、さっきので心も鍛えられたので普通に見ることが出来たけれど、これも生き物なの?」
「な、なんだって!?」
急に血相を変えた本多は、まるで突きとばすかのようにイレッサを押しのけると、光を放つ接眼レンズに食い入るように双眸を押し当てた。
「ひっどいわね〜、そんなに慌てなくてもいいじゃないのよ!」
「こ、これは……確かにヒャッハーさんじゃなかったモヒカンさんの仰る通りだ!」
本多はブーたれるイレッサの抗議もすっかり耳に入っていない様子で、ひたすらうわ言のように呻き続けた。現在彼の両眼には、糸状の白癬菌とは明らかに違う、二本の黒光りする、節を山のように持った細長い謎の物体が、立派な二重螺旋を形成している様がはっきりと映っていた。
「何故、こんなDNAによく似たものが見えるんだ!? それとも、まさか倍率を間違えている……?」
彼は化け物に出くわして飛び退くように顕微鏡から顔を離すと、接眼レンズと対物レンズをキュルキュルと音を立てて抜き取った。
「かけてもやっぱり百倍か……そもそもこの光学顕微鏡でいくら倍率を上げようと染色体はいざ知らず、DNAなんかが視認出来るわけがないし……では、こいつの正体は!?」
どうやら珍しく本多のおちゃらけた頭脳が高速回転している様子で、普段垂れている両眼は心持ち目尻が持ち上がり、鳥の巣のような髪の毛に隠された額からは汗が滴り落ちていた。
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