カルテ72 少年とリザードマンと総身脱ぎ その3

 その年のトピナ湿原の春は、乾燥がひどかった。


 冬の間の山々への降雪が少なかったためか、もしくは普段より進路がずれた季節風の影響か定かではないが、異常気象と呼べるほどの現象が生じた。ラボナール平原より更に南方に位置するこの土地は、様々な動植物が生息する生命のゆりかごであったが、今や全ての生物は命の危機に瀕していた。湿原の中央を蛇行するユービット川はさすがに干上がることはなかったが、その周辺の湿地帯は茶色く乾いて地肌がむき出しになっている箇所が多く、例年なら青々と生い茂るはずの葦やヨシも、老人の毛髪程度にしか見られなかった。


 湿原に住むリザードマンたちも水場を求めて争うことが増えてきた。もっとも武器を使わない喧嘩程度の小競り合いだが、獲物の小動物や魚も減っているため、比較的実り豊かな川に近い土地は垂涎の的で、複数の力の強い部族が占拠しており、残る小勢力たちは、細々とした支流か、かろうじて残った小さな沼の周辺で、ひっそりと身を寄せ合って暮らす他なかった。


 オルセノンも、そんな小部族のオスのリザードマンだった。生まれつき体躯の小さい彼は、猫背でややO脚気味であり、筋力も弱く、仲間と一緒に狩りに出かけてもなんの成果もあげられず、次第に留守番役に回されることが多くなった。


「オラ、役立たず、皆の足手まとい。ごめん、長老……」


 一族の住処である、沼地の側にある洞穴の中で、オルセノンは申し訳なさそうに長老のマキシピームに頭を下げた。


「気に病むな、オルセノン。汝、勇敢で偉大なる竜エンクラッセの子孫なり。必ずや、他人のため、一族のため、世のため、功成り名を遂げん」


 老いたリザードマンは、オルセノンの三倍はあると思われる巨躯を地面に横たえると、皮が剥がれかかっている目元を優しく細めた。もうすぐ脱皮が行われるのであろう、身体の動きがやや鈍重になり、全身に薄っすらと白い膜が張ったように見える。


「でも、オラ、長老みたいに総身脱ぎできない……皮もボロボロに落ちる……」


 なお卑屈の虫となる小柄なリザードマンに対し、長老は蛇のごとくシューっと音を立てて長い舌を伸ばし、彼を愛しそうにペロっとひと舐めした。


「再び言う。気に病むな、我が子よ。総身脱ぎなどまだ出来ずともよい。また、かの言い伝えを思い起こすがよい。曰く、『汝、身体もしくは心が病いに侵されし時、十字の印刻まれし白亜の建物を見るであろう。ただし、それは汝が生涯に一度きりなり』。我らが一族の前には未だ現れたことはないが、そは真実なり。悩める者、光の救世主に出会うために祈るがよい。エンクラッセの祝福あれ」


 長老は伝説の始祖の名を口にすると、まさにその竜の生まれ変わりのような長大な身体をブルブルと震わせ、脱皮を開始したので、オルセノンはそっとその場を離れた。



 西の空を夕陽が真っ赤に焦がし、湿原にわずかに残った点在する水場も同色に照り映える。一日の餌あさりを終えた水鳥たちが群れを成し、寝ぐらに向かって飛んでいく。ほら穴から外に出たオルセノンは、朝方仲間たちが仮に出かけた東の方角に目をやるも、そこには早くも群青色に変わりつつある夜空と、闇に暗く沈む大地が見えるだけで、動くものの影もなかった。今日もまた得物が見つからず、どこかで野営をしているのだろう。変温動物のリザードマンは、夜間は動きが鈍るが、この広い湿原には逆に夜になると活動し出す小動物も多くいるため、体力のある者が火を焚いて夜中に狩りをすることもある。


 遥か遠い昔、巨大な竜族が地上の王者だった時の名残りで、昼間生きた心地もせずにいた小動物たちは、未だにその時の癖が抜けずに夜起きているのかもしれぬな、と博識な長老は笑いながら語ってくれた。そのエンクラッセを王に頂いた偉大な竜族の末裔と言われる自分たちが、今では卑小な生物となってしまったことが、オルセノンにはなんだか悔しかった。


 彼は、黄金の陽光を反射する、自分の剥がれかけた二の腕の皮をガリっと爪で引っ掻いた。白く変色した皮はポロっと葉っぱよりも小さく剥がれ、吸い込まれるように地面に落ちていく。せいぜいこの程度の大きさしか一度に脱皮することが出来ないのが、若い小柄なリザードマンの最大の悩みだった。


「どうしてオラ、総身脱ぎできない……?」


 水滴が水たまりに落ちるよりも小さな声で、オルセノンはぽつんとつぶやいた。

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