カルテ208 運命神のお告げ所(後編) その24
(動物の身体から流れ出た血はすぐに固まってしまう。だったら吸血コウモリが血を吸い続けるのはとても大変なはずだ。いったいどういう仕組みで彼らはスムーズに食事が出来るんだろう?)
生まれ故郷ロラメットの繁華街の薄汚れた路地裏で、傷だらけの父親の介抱をしながら彼が胸中に抱いた疑問とは、実はそのようなものだった。
ほぼ私生児に近いテレミンは、その環境のため真っ当な教育を受けたことはなかったが、幼い時、ロラメットで私塾を営んでいる引退した護符師が街角で地面に独学で学んだ数式や図形を描いている彼の聡明さに目を見張り、空いた時間に無料で時々文字や算数、歴史などを教えてくれたのだった。お陰で彼は乾いた地面が水を吸い込むがごとく様々な知識を貪欲に吸収し、他国の貴族の子弟並みの優秀な頭脳となったのだ。
好奇心溢れる彼は、殺人コックの魔の手から無銭飲食犯の父と逃走に成功した日の後、一度だけ死んだばかりの吸血コウモリを観察する機会に恵まれたが、口の中は普通に尖った鋭い歯が生えているだけで、動物の皮膚を切り裂くのに適しているだろうと推測はできたが、残念ながらそれ以上の他の動物との違いはわからなかった。
(となれば、ひょっとして……)
口や歯の形以外の点、例えば分泌液に秘密があっても不思議はない。アリクイの唾液が他の動物より粘り気があり、アリが引っ付きやすくなっているように、コウモリの唾液にも血を吸いやすくする何らかの作用があるのではないかと、彼は推測したのだ。例えば、血を固まらせず溶かしやすくするとか……。そして思考は想像力の翼を広げて更に昇華していく。
(アリクイとアルマジロが似たような舌の構造だったように……)
吸血コウモリと同じく夜の世界に生きて人間の血を糧とする闇の盟主たるバンパイアもまた、同様のメカニズムが体内に組み込まれている可能性は非常に高い。彼は今まで本で読んだり耳にした吸血鬼の伝承を全て検証したが、パンを急いで食べた老人がたまにやらかすように、彼らが食事中に人間の血をうっかり喉に詰まらせたなんて愚かな話は聞いたこともなかった。そもそも魔の一族である彼らは吸血コウモリに変化することもできるんだし、類似した生理構造を持っていても矛盾しないだろう。
どの学者や知識人も唱えたことのない仮説であり、傍目には一見賭けにも近い無謀な行いにも見えるかもしれないが、自分を信じて試してみる価値は充分にあると思われた。旅の経験が彼を人間的に大きく成長させていた。
(ルセフィ……えっ!?)
テレミンは自分の中に存在する記憶の大伽藍たる荘厳な図書館を立ち去ると再び現実世界に戻り、そして一瞬我を忘れて追憶に耽っていた間に起こっていた変化に目を見張った。さっきまで朝のツユクサよりも青かったリルピピリンの唇にやや赤みが戻り、苦しげに吐いていた息も少しづつゆっくりになっていたのだ。
「ルセフィ、リルピピリンさんの調子が良くなって……!」
今度は実際に声に出して叫んでいたが、沈黙を邪魔した少年を責めるものなどおらず、それどころか部屋中が喜びの声に溢れかえっていた。
「やりましたね、ルセフィさん! 小生は信じていましたよ!」
「ダオニールさんあまり乗り出さないで! 大きいから見えないじゃないですか!」
「リルピピリン、大丈夫か!? もう胸は痛くないか!?」
「ママー!」
奇跡を目の当たりにした彼らは興奮を抑えることができず、口々に話しかけるため、ルセフィが「ちょっと静かにして! まだ安静が必要でしょう!」と一喝せざるを得ないほどだった。窓からは、そんな彼らを祝福するように、冴え冴えとした月の光が静かに差し込んでいた。
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