カルテ209 運命神のお告げ所(後編) その25

 何百年も時を経たような古色蒼然とした家具や、古の貴族らしき肖像画が飾られた薄暗い洋室。天蓋付きの大きなベッドの奥に、シルクの長袖を着た女性が眠っている。金の糸のような長い髪と透き通る肌をした絶世の美女だが、歳はまだ二十代になったばかりだろうと思われる。豪華な調度品の数々から察するに何一つ不自由ないように見えるが、その表情は苦痛に歪み、小さな額から脂汗を流している。


 その時、風もないのにカーテンが捲れ上がり、バルコニーに出るためのガラスの扉が内側に向けて開いた。そこには漆黒のマントと同色のタキシードに身を包んだオールバックの男が、背後に無数のコウモリを従え、優雅な仕草で立っていた。男は音も立てずに眠れる美女に接近すると、鋭い牙の覗く赤い唇を彼女の細い首筋に近づけ……


 そこで液晶画面は賑やかな音楽とともに、突然新発売されたばかりの洗剤に切り替わった。


「ほーう、やっぱ大画面は映りが良いですねー。やっぱ待合室にテレビがあると、だいぶ違いますねー」


 玄関ホール兼待合室のソファに腰掛け、設置されたばかりの液晶テレビに見入っていた本多医師は、CMに入ったためか視線をテレビ画面から受け付けに向けた。


「そんな事より溜まっているレントゲンでも読影して下さい、先生」


 無表情な赤毛の受け付嬢兼看護師のセレネースは、相変わらず辛辣そのものだった。


「まあまあ、本来時間外だしいーじゃないの。それにしてもこのドラキュラさんもレントゲン写真に触れたら悲鳴をあげるんですかねー、いつぞやの吸血鬼のお嬢ちゃんみたいに?」


「知りませんよ。テレビ局に問い合わせてみてはどうですか?」


「多分答えてくれないだろうけどねー。そういえばこれに吸血コウモリが夏場のハエみたいにわんさか出てくるけど、あいつらって医学的に非常に有用なんですよ。知ってました?」


 本多は天井の明かりを反射させるスキンヘッドを撫でながら、不敵な笑みを浮かべた。


「本当ですかそれ?聞いたことありませんが……」


「おっ、食いついてきてくれたねえー、セレちゃん。これは吸血コウモリに限らないことなんだけれど、この手の他の動物の血を吸って生きる生物は、特殊な唾液によって獲物の血が固まるのを防いで、スムーズに食事をするわけなんですよー。有名どころでは吸血ヒルの唾液に含まれるもので、名前がそれこそヒルジンなんて言うんですよー」


 普段は無感動な看護師が珍しく話に乗ってきてくれたのがよっぽど嬉しかったのか、本多は突然饒舌になった。


「ヒル……?」


 セレネースはゴキブリでも見かけたかのように、極々わずかながら、柳眉をしかめ気味に動かした。


「えーっとですね、中世ヨーロッパの医療では、患者から血を抜く瀉血なんてものが主流だったんで、そのため吸血ヒルは重宝されたんですよ。ちなみにアマデウスで下ネタ好きなモーツァルトさんは2リットルも瀉血されたのが原因で死んだんじゃないかなんて言われてますけどね。サリエリさんもとんだとばっちりですよね。で、ヒルジンは血液凝固因子であるトロンビンを阻害し血液が固まるのを防ぐために、外国では血栓症の予防に用いられていますが、残念ながら日本じゃまだ認可されていないんですよー」


 絶好調の本多は指揮者のように指を振りながら、滔々と語り続けた。


「話がだいぶズレてますけど、コウモリはいったいどうなったんですか?」


「おっと、こりゃまた失礼〜」


 冷静沈着な助手が軌道修正に入ったため、医師は指先の動きを止めると、再び映画を映し出したテレビと同じく話を戻しにかかった。

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