カルテ210 運命神のお告げ所(後編) その26
待合室の窓の外はほぼ完全な闇と化し、細い月が美女の爪先のように白く光っているのみだ。今居る場所は異世界なのだろうか、とセレネースはふと疑問に思った。
「えーっとですね。そういうわけで、吸血コウモリの唾液にも、吸血ヒルや他の吸血生物と同様に、血栓を溶かす作用のある物質が含まれていることが近年発見されたんですよ。凄いでしょー」
本多医師はといえば、外の様子にはお構いなく古臭い映画をテレビで観ながら、得意の無駄知識披露を続けていた。もっとも月夜の夜には相応しい話題だと言えなくもなかったが。
「吸血コウモリの生態はまだまだ謎に包まれているんですが、空腹の仲間に血を吐き戻して与えるとか、結構仲間思いの動物だそうですよ。そしてその唾液には、血液凝固防止作用以外にも、眠った動物を起こさずに吸血するための皮膚に対する麻酔作用まであるそうです。ここまでくるとバンパイアも顔負けですねー」
液晶画面では、吸血鬼に噛まれる寸前に目覚めた美女が、悲鳴をあげながらベッドから抜け出している真っ最中だった。
「はぁ……おっしゃる通り凄そうですけど、それってどういう原理なんですか?」
窓を眺めるのに飽きたセレネースが、ようやく合いの手を入れた。
「ナイスな質問ですね、セレちゃーん! さて、血液内には血栓の主な成分であるフィブリンを分解するプラスミンの前段階であるプラスミノゲンってやつがいっぱい流れています。こいつ自身はタンパク質分解作用を持たないんですが、いざ出血が起こると血管内皮細胞から分泌される組織プラスミノーゲン活性因子、略してt-PAって物質によって活性化され、プラスミンに変身して血を止めます。そして吸血コウモリの唾液には、このt-PAが含まれているというわけなんです」
「で、結局人間には薬として使えるんですか?」
「もちのろんですよー。この物質……コウモリ由来ってことでバットPAって名付けられましたが、従来の抗凝固薬よりも強力な効果があることがわかって注目を浴び、海外では『ドラキュリン』なんていう名前で発売されたそうです。良いネーミングセンスですよねー」
「確かに覚えやすそうですけど、イメージ的にどうなんでしょう……?」
「別にいーんじゃないの? 格好いいですし。それにしても最近の漫画や小説の吸血鬼さんときたら、日光に当たっても日焼け程度にしか感じないやからが多くて、ちょっと嘆かわしいですねー。僕としては、この映画みたいに古典的な方が……」
「それは好みの問題じゃないですか?」
二人がそんなやり取りを繰り広げている最中、入口のドアが凄い勢いで開かれ、二本の角を頭部に生やした恐るべき姿の怪物が、荒い息を吐きながら屋内に突進してきた。頭は牛だが身体は人間という生物で、コートなどの衣類は身につけているものの所々敗れており、傷を身体の随所に負っている。
「おおう、ミノタウロスさんですか! これはお珍しい!」
本多は即座にテレビ画面を消すと、歓喜の声を上げた。
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