カルテ177 眠れる海魔の島(前編) その1

「痛あああああいっ!」


 リーゼ・ファリーダックは、短めの栗色の髪の毛を振り乱しながら、花も恥じらう16歳の乙女とは思えないほどの絶叫を、診察室はおろか本多医院中に轟かせた。


「やれやれ、大げさなお嬢さんですねー、もう終わりましたよっと」


 ちゅぽんと音を立てながら、本多は彼女の形のいい鼻の穴から、スワブと呼ばれる長い綿棒のような物を抜き取ると、すぐさま小さなプラスチック製の薬瓶に似たような物の中に先端部を突っ込んだ。


「うう……ひどいです……処女を失った時よりもずっと痛かったですぅ……」


 南国風の赤いワンピースを身に纏い、髪の毛に白い花を挿した一見可憐な少女は目元に涙を滲ませながら、さらっと恐ろしいことを口にする。


「急にとんでもないことを言わないで下さいよ!手元が狂うじゃないですか!」


 本多は禿げ頭を震わせ戦きつつも、鼻腔ぬぐい液を溶け込ませた試液の入った小瓶に、試料ろ過フィルターのついた、とんがり帽子のような変わった蓋をした。


「冗談ですよ、先生を困らせてやろうと思って嘘ついちゃいました、フフッ」


 泣いていた乙女が急に笑い出し、ペロッとかわいいピンクの舌を出した。


「やれやれ、大人をおちょくらないで下さいよー」


「すいません、でもそんな鼻の奥の汁なんかを、いったいどうするんですか?」


「よくぞ聞いて下さいました! こーします!」


 本多は威勢よく返答しながら手に持った容器を逆さまにすると、机の上に置いてある小さなプラスチックの板切れのようなものに数滴ほどポトポトと滴下した。滴下した場所には灰色の溝があり、そこには三つの目盛りがあり、それぞれA、B、Cと刻印されていた。


「それ、何ですか?」


「これはインフルエンザ抗原検査キットと言いまして、毎年冬になると大量に消費されるものですよ。えーっと、今何時ですかねー?」


 本多は説明の途中でひょいと顔を上げると、壁の時計をちらっと視界に入れた。


「こうやって、この板の灰色の部分にあなたの鼻腔から採取した拭い液と試薬を混ぜ合わせたものを垂らし、15分間静かに待ちます……ってなんだか料理教室の講師みたいになってきましたね、僕」


「それはどうでもいいですから、続けて下さい……クシュン!」


 医師に突っ込みながら、彼女は小鳥のさえずりのように可愛いくしゃみを一つした。


「はいはい。えーっと、そして……って、15分も経たずにもう反応しちゃってますねー。おほーっ、こりゃまごうかたなき立派なA型だわー」


 本多は板切れをしげしげと覗き込むと、垂れ目を持ち上げ、丸くした。


「ど、どういうことですか……ハックシュン!」


 医者の過剰な反応に刺激されたのか、リーゼは先ほどよりも大きなものを一発ぶちかましてしまった。


「百聞は一見に如かずってことわざがこっちの世界にはありましてね、ま、一目見てやってください」


「はぁ、では、お言葉に甘えて……」


 彼女は恐る恐る、見慣れぬつるつるした材質の物体に視線を注いだ。どうやら灰色のスリットの「A」の目盛りのところに、青い線がくっきりと浮かび上がっているようである。


「これは、あなたの体内にインフルエンザA型ウイルスという目に見えないほど小さい生物が潜んでいることを表しています。こいつがあなたの発熱や咳、鼻汁、筋肉痛といった数々の症状を引き起こしているんですよ」


「はぁ……そうだったんですかぁ……」


 聞きなれぬ異界の医学用語に戸惑いを隠せない少女は、それでも発熱によるものとは明らかに違う潤み方のキラキラした瞳を向けて来るので、本多は解せない何かを感じた。彼女と自分との間には、何かあったとでもいうのだろうか?

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