カルテ178 眠れる海魔の島(前編) その2
「というわけで、インフルエンザウイルスは僕らの方の世界でも猛威を振るった伝染病でして、原因がわからずスペイン風邪なんて呼ばれたときは、実に一億人近くの人々が命を落としたんですよ。ですが、そのためもあって、対策が積極的に講じられてきた病気でもあり、弱毒化した病原体を体内に予め注入し、免疫力を高めるワクチンという予防方法も、他の感染症以上に普及していきました。
ただし、このウイルスは非常に変異を起こしやすく、基本的にはA、B、Cの三つのタイプがありますが、毎年どの型が流行するかは見極めにくく、完全に予防することは困難です。大抵はAかBですけどね。ちなみにさっきの目盛りにあったCはC型のことではなく、コントロール群のCでして、つまりは感染していないって意味です。とにかく厄介な感染症なんですが、人間様のさらに凄いところは、負けじと治療薬を次々と開発してきた点にあるんですねー」
「はぁ……」
本多の水を得た魚のように滔々と流れる説明に、さすがの夢見る少女もやや呆然としていたが、それでも熱心に彼の講義に耳を傾けていた。
「治療薬は発症後二日以内に使用しなければ効果が無いことが多いですが、内服薬や吸入薬、注射薬が発売され、ワクチンと二人三脚で治療に使用されるようになりました。そして遂に、たった一回飲むだけで治る薬まで登場したんですよ!……ってちょっと興奮し過ぎましたね、コホン。すいません……」
やや冷静に戻った本多は机の上の検査キットをそそくさと片付け、医療感染ゴミ専用のゴミ箱の中にポイポイと投げ込んでいった。
「すごーい、じゃあ、その薬をここで飲んじゃえばいいわけなんですね。さっすが伝説に謳われる白亜の建物のお医者様だわ!」
対するリーゼの眼差しは、完全に恋する乙女のそれで、まだ幼さの微かに残るふっくらとした顔は赤く火照っていた。
「まあ、そういうことですが、それにしても喉が渇きましたね。ちょっと失礼」
本多は検査の為手に嵌めていたビニール手袋も外すと、いくら懇願しても絶対セレネースがお茶を入れてくれないため、先ほど買ったペットボトルを手に取ると、中身を一口啜った。
「本当にありがとうございます、本多先生! あなたは私の命の恩人です! 胸に溢れる感謝の気持ちを、とても言葉で表しきれません! お礼に、つまらないものですが、私の処女を捧げます!」
「ブゴアッ!」
本多は口に含んだばかりの十数種類が混ざっているらしいお茶を盛大にスプラッシュした。
「そそそそそんな、抗ウイルス薬一粒くらいで大げさな。もっと自分を大切にしなさい、お嬢さん」
「いえ、今回の事だけじゃないんです! 本多先生はずっと以前にも、私のことを救って下さったことがあるんです!」
「ええっ!?」
本多は思わず手にしたペットボトルを取り落としそうになり、おっとっとと握りしめると、穴の開きそうなほどマジマジと彼女を凝視した。
「あなた、お歳は確か、16でしたっけ?」
「はい、その通りです!」
「生まれてからこの島から出たことは?」
「一歩もないです!」
「……それじゃあ、前に会ったことはあり得ませんよ、間違いなく」
本多は湯呑をそっと机に置き直すと、窓のない診察室の外から微かに聞こえる波の音に耳を澄ました。
「確かに僕は、ここジャヌビア王国のアラバ島のフィジオ村にユーパン大陸側の時間にして17年近く前に来たことがありますが、その時はあなたはまだこの世に生を受けていませんし、そもそもここ本多医院……皆さんがいうところの『白亜の建物』は一人の人間は生涯に一度しか訪れることが出来ません。これは自然の摂理と同じく、厳然たるルールなのです」
「でも、それは生まれてからの話でしょう?」
少女は年齢に似合わぬ大人びた影を双眸に揺らめかせ、謎めいた微笑を口元に浮かべた。
(……多分、返答を間違えたら、性的な意味で食われる!)
本多は美しい魔物の謎々に挑む勇者の如く、必死に脳をフル回転させた。
「……!」
頭を捻ることしばし、彼はようやく答えにたどり着き、思わずポンと柏手を打った。
「そうか、あの時おばあちゃんと一緒にいた妊婦さんか! 君はお腹の中にいたってわけですね!?」
彼女は無言のままだったが、肯定の意を表す、大輪のヒマワリのような笑顔を咲かせた。
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