カルテ211 ライドラースの庭で(前編) その1

 ジオール・カデックスは夢を見ていた。どこともしれぬ暗闇ばかりが広がる空間を、あてもなく彷徨っているなんとも心もとない夢だ。


 もうどれくらい歩き続けているのだろう。足取りは重く、両脚が鉛のように感じられ、汗が水銀のようにねっとりと彼の禿げ頭に垂れ下がっている。五十代初頭で、中年太りが気になる年頃ではあったが、ここまで体力は落ちていなかったはずだ。


「ここは……どこだ?」


 つぶやく声は、口に出した端から虚空に吸い込まれ、更なる静けさが押し寄せて来る。喉はカラカラに乾き、舌が辛い物でも食べた直後のようにヒリヒリする。頭痛やめまいまでもが生じそうになり、耐えられずに彼が倒れかけたまさにその時、


「な……何だ、あれは!?」


 突如、目の前の深淵を真四角に切り取ったかのごとく、白い長方形の建物が何の前触れもなく眼前に出現したため、彼は大声を上げた。材質不明の建物はそれ自体が光を放つかのように感じられ、闇に慣らされ開ききった彼の瞳孔には眩し過ぎた。


 反射的に細くした彼の目に、建物のドアを開けて中から出てくる白衣の男の姿が飛び込んできた。手入れ不足の庭木に似たモジャモジャの黒髪をゆらりとしながら真っ黒な地面の上をヒョイヒョイと歩き、こちらにゆっくり近づいてくる。


「く……くるな! 汚らわしい悪魔の手先め!」


 ジオールは焦燥と恐怖と憎悪がないまぜになった叫びを、爆発四散しろとばかりに迫り来る男に投げつけながら、拳を振り上げた。



 ボスっという現実の音とともに、握りしめた右手に枕の柔らかい感触が伝わってきた。


「ハァっ、ハァっ、ハァっ」


 ジオールは荒い息を吐きながら、ベッドにうつ伏せになった大勢のまま、今抜け出してきたばかりの悪夢を反芻していた。


「何という……何という罰当たりな夢を見てしまったのだ……おおお」


 彼は額の汗を毛の生えたごつい手の甲で拭いながら、己の罪深さに恐れ慄いた。とてもライドラース神に仕える神官長が見ていいような代物では決してない。誰か今の独り言を聞いていなかったかと、寝室の窓を仰ぎ見るも、外は夜の青さを残しており、まだ日が昇ってないのは明白だったので、ようやく落ち着いた彼は、もう一眠りしようとゴロンと仰向けになった。


 だが、彼の安息はその数秒後に、激しくドアを叩く音によって無残にも踏みにじられた。


「神官長様! ジオール神官長様!」


 ノックとともに彼の名を呼ぶ野太い声は、確か最近雇い入れた使用人のものだった。名は確か、ブレオとか言ったか……


「うるさいな、何事だ一体、こんな早朝に」


 不機嫌極まり無い寝起きの声を発しながらも、彼は渋々ベッドから降りるとドアを開けた。


「お休みのところ大変申し訳ございません! ですが人の命に関わる急用でして、あの、その……」


「わかったから落ち着いて話しなさい。誰が、どうしたんだ?」


 全身で恐縮しながらしどろもどろに話す中年男に対しやれやれと思うも、ジオールは神官長の威厳と余裕を取り戻し、彼を宥めながら話を聞き出そうとした。


「す、すいません。あの、神殿御用達の行商人のパムさんが野営中に襲われ、なんとか助かったんですが、大怪我を負いまして、その、治療をお願いしたく……」


「何ぃ!?」


 途端にジオールの焦燥感が復活して沈着冷静の仮面が吹き飛び、彼は突拍子も無い声を上げた。

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