カルテ165 新月の夜の邂逅(後編) その9
先ほどの霧は欠片もなく、新月の夜空は見渡す限り振るほどの星に覆われ、地上の壮絶な戦いを静かに照らしていた。
「学院長様、あの女はいったい何者ですか?」
ようやく調子を取り戻したクラリスが、立ち尽くしたままの上司にそっと話しかける。
「ふむ、わしはあやつに見覚えがあるぞ。いくら変わり果てた姿となろうとも、あの魔力と、底知れぬ光を秘めた眼差しだけは忘れたくとも忘れられぬからな。しかし、まさかこんな地の果てともいえるような場所で出くわすとはのう、くわばらくわばら」
銀仮面も驚きと興奮を隠せないのか、黒い手袋を嵌めた両の拳を血を流しそうなほどきつく握りしめており、まるで手袋をしていても下の血管の浮き上がりが見えそうなほどだった。
「シグマート! 何を呆けっとしているのです! 先ほどの夢の中の威勢はどこへ行ったのですか!? 早く私に手持ちの護符を投げなさい!」
何と、胸に光り輝く護符を貼り付けた謎の女性が、カバのようにあんぐりと口を開けて黒い波間から上空の珍事を眺めている少年に、名指しで呼びかけた。そして、彼には聞き覚えがあった。
「そ、その声は、さっき幻覚の戦場で僕に話しかけてきた……」
「いいから早くしなさい! 焼け死にたいのですか!?」
「は、はいいいいいっ! 只今!」
背筋に氷を入れられたかのようにシャキッとしたシグマートは、慌ててポケットの中の切り札ともいえる護符を取り出した。凄まじい量の魔力を消費するため、すっからかん状態の現在の彼には到底使えないが、あの女性には途轍もない何かを感じるし、どうやら味方のようなのは確かなので、一か八か、託してみるのも悪くはないだろう。
「させるか、グランダキシン!」
学院長に様子を見るよう言われていたのも忘れて、激高したクラリスが絶叫するとともに、手にした薄紅色の護符から燃え盛る火球が出現し、空中の怪物目がけて放たれる。先ほどもマンティコアに命中したものと全く同じ護符魔法だが、今回は可燃性の黒い油を全身に纏っているため、事前に水を被っていた前回と違い、殺傷力は比較にならないだろう。
「ったくもお、しょうがないわね、フシちゃんったら。タキソール!」
あわや大惨事かと思われた瞬間、波を掻き分け獅子の真下に泳ぎ着いた大根頭が高々と呪文を詠唱する。同時に獅子に降り注いだ豪雨のため、必殺の火球は音を立てて、跡形もなく消失した。
「今だ、シグマート!」
いつの間にか彼の近くに顔を出したミラドールが、少年に叱咤を飛ばす。
「わかってますって。それーっ!」
雄叫びと共にシグマートの投げた護符は矢のように空中を突き進み、見事獅子の背中にケンタウロスの如く生えた上半身だけの裸の美女の手にキャッチされた。
「さあ、どうしますか、博識かつ賢明で名高いグラマリール学院長殿、まだ不毛な戦いを続けますか?」
女性の神の使いにも似た荘厳な声が、漆黒の異界と化した戦場に殷々と響き渡る。百戦錬磨の戦士をも諭すかのようなその声音は、先ほど幻の世界で少年も感じた通り、並々ならぬ人生経験を積んだ人間のそれだった。
「何を不敬なことを! 学院長様にぬけぬけと指図する気か貴様!」
あまりのことにブチ切れたクラリスが再び服の袖から新たな護符を抜き取ろうとするも、グラマリール自身は何一つ反論せず、首をコキコキ鳴らしながら、心ここにあらずといった風だった。
「い、いかがなされたのですか、学院長様!?」
さすがに秘書も、ただならぬ雰囲気に気づき、護符を収めて上司の方を振り返る。
「クラリスよ、耳をよく澄ましてみるがよい。聞こえぬか、あれが……?」
「へ?」
「ああ、あたいにも聞こえるわ、グラマラスちゃん!」
突如イレッサが、学院長をとんでもない呼び名で呼びつつ空に向かって叫んだ。
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