カルテ122 新月の夜の邂逅(中編) その5
「……私は何だか頭痛がしてきたので、ちょっと中座して、外の空気を吸ってきてもいいか? 別棟で休んでいるという仲間達のことも気にかかるしな」
汗の光る額を押さえたミラドールが、小声で漏らしながらそっと席を立ち上がろうとしたその時である。大地が、突如轟音を立てて鳴動し、まるで大波の上の小舟のように、石でできた建物が揺れ動いた。
「う、うわあっ!」
腰を起こしかけたミラドールは、危うく転倒しそうになるも、辛うじて、隣にいたイレッサの、腐った大根みたいな頭をがっしりと掴み、何とか持ちこたえた。
「キャーッ、ミラちゃんったら、どさくさに紛れてそんなとこにぎにぎしちゃダメよ!」
「言ってる場合か!? なんだこれは、地震なのか!? 相当でかいぞ!」
ミラドールは、慌てて不浄のものに触れて汚れてしまった手を引っ込め、未だ振動を続ける石の床を、足をやや開き気味にして慎重に踏みしめる。不気味な上下運動はなかなか止まず、天井からパラパラと、石片が食卓に降り注いできた。
「ひょっとして、敵の護符魔法による攻撃かのう?」
いつものほほんとしているマンティコアも、四肢を踏ん張りながら、目を光らせる。
「いーえ、多分違うわ!」
「おそらく違うと思います!」
イレッサとシグマートが、フシジンレオの問いに対してほぼ同時に答える。
「あたしってばこう見えても156年も生きてきたけど、これだけ大きな地震を経験した記憶はかつてないわ。ユーパン大陸全土においても、あたしの知る限り、少なくともここ300年ほどは大きな地震の記録はないわ。だから、論理的に考えるならば、それを封呪した護符もきっと存在しないはずよ。あたしなら、地震の魔法でもうちょっと弱めのものなら起こせるんだけど」
「ちょっと悔しいけれど、イレッサさんの言う通りです。これほど強力な地震の護符は、ルーン・シーカーの僕でも知りません」
「まったく、今日は厄日かしらねー」
二人が交互に話している間にも、千年に一度の揺れは収まるどころか激しさを増し、石壁にビシッと亀裂が走った。
「何にせよ、ここはもう限界じゃ! 皆の衆、すぐに外に逃げるぞ!」
フシジンレオが、まさに猛る獅子の如く大喝すると、真っ先に廊下へと駆け出していく。
「待てい、薄情者!」
ミラドールも、とっさに傍らのクロスボウとランプを引っ掴んで、後を追い、イレッサとシグマートもそれに倣う。石の回廊に灯されていたロウソクは悉くが倒れ、廊下は一面ひび割れ、所々隆起していた。天井から小雨の如く降る石片の大きさが、もはやバカにならないくらいの大きさで、避けるのに気を遣わなくてはならなかった。
「急げ! 走れ!」
「頭を守れ! 転ばないよう足元にも気をつけろ!」
「早くしないと崩れるぞ!」
至る所で警備をしているハイ・イーブルエルフ達の怒号が飛び交い、何かがぶつかったり壊れたりする音が響く中、ようやくシグマート達三人と一匹は、屋外に無事到着した。
「ふーっ、助かったー」
少年が胸をなで下ろす。不気味な振動は未だに続いていたが、徐々に小さくなっていた。
「しかし凄い霧だな。この辺りは、夜はいつもこんなに煙るのか?」
ミラドールはランプを持った右手を掲げ、前を照らす。確かに外は一面真っ白な霧の海で、灯りはおろか、イレッサやフシジンレオの持つ暗視能力をもってしても、まったく先が見えなかった。
「おかしいわね、朝ならともかく、夜にこんなに霧が湧くことなんて、せいぜいよっぽど寒い真冬のときぐらいよ。今夜は本当に何かが変ね……」
イレッサが霧を覗き込みながらいぶかしげにつぶやいた時、一同は、奇妙なねっとりとした香りを夜風が運んできたのに気づいた。
「ん、なんじゃ、この甘ったるいアロマは? 近くに花園でもあるんかいの?」
赤毛の獅子が、クンクンと犬みたいに鼻を鳴らすも、ミラドールとイレッサは、共に顔色を失った。
「皆、匂いを嗅ぐな! これはテネリアという花の、幻覚を見せる花粉の匂いだ! 息を……」
吸うなと叫ぼうとしたミラドールの意識は、そこでぐにゃりと歪み、白いミルクのような霧の中へ溶けていった。
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