カルテ128 猫娘とバイオリン弾き その2

「酒は、酔わせるばかりじゃなくって、時には火照った身体を冷ましてくれることもあるのよ」


 再びお替わりを貰ったエリザスは、ちびちびとワインを口にしながら、ロングスカートから零れる長い脚を優雅に組み替えた。


「へえ、そいつは初耳じゃ。どうやるんじゃい?」


 興味を持ったバレリンが、話題に食いついてくる。


「ほら、さっき私があなたにやったように、顔にぶっかけるのよ。炎天下の元長時間太陽に曝され暑さでぶっ倒れちゃった人に対してとかね」


 彼女はやや遠い目をしながら、白亜の建物の医師から聞いた蘊蓄を披露した。


「ガハハハハ! それは確かに効き目がありそうじゃな」


 調子を取り戻したバレリンは、愉快そうに破顔した。


「ま、私に言わせてみれば、お酒ってのは付き合い方が大事なのよ。例えば、『ワインの瓶の中には二人の女がいる』って……おっと、そんなことを言ってる場合じゃなかったわ!」


 酒に関する蘊蓄を通ぶって開陳しようとしていたエリザスだったが、ふと、当初の目的から著しく脱線していることに気づき、慌てて会話を軌道修正した。


「ん、いきなりどうしたんじゃ?」


「実は聞きたいことがあるんだけれど、女性の顔をしたドラゴンの噂って知らない、バレリンさん?」


「女性の顔をしたドラゴン、とな……はて、確か符学院というところに、そういう石像があると耳にしたことがあるが……」


「それじゃなくて違うやつよ! んもー、バレリンシロップ以外は役に立たないわねー」


 猪首を傾げるドワーフに対し、やや酒が回ってきたエリザスは、躊躇なく突っ込んだ。


「ガハハハ、そう怒るな、お嬢さん。あいにくわしはその手の噂話には疎いが、あそこで今弾き語りをやっておる奴なら、知っておるかもしれんぞ」


 こちらもだいぶメートルをあげたバレリンは、ソーセージの如く太い指先を酒場の奥に向けた。そこではバイオリンで軽快にアレグロを奏でながら、酔っぱらい男が宿屋の女将さんを寝とるファブリオー(小話)を愉快に物語る、尖った緑の帽子を被り、赤いチョッキと緑の上着とズボンを身に着けた若い男と、隣りで男の曲に合わせてタンバリンを叩いている、虎嶋の毛皮の上にピンクのワンピースを纏った猫頭の獣人がいた。男は長い顎鬚を生やしているが、綺麗に整えられており、伊達男といった雰囲気だ。また、獣人の方は、どうやら虎猫族のメスらしい。猪突猛進で有名な戦闘的な一族で、傭兵などになる者も多いと聞く。


「あの卑猥な歌を歌っているのは……ひょっとして、吟遊詩人ってやつ?」


「その通り。旅から旅を常とする彼らなら、珍しい魔獣の話にも、きっと詳しかろうて」


「ありがとう、バレリンさん! 演奏が終わったらさっそく聞いてみるわ。それじゃ、その前にもう一杯……」


「しかしよく飲むのう、お前さん。大丈夫か?」


 自身も大酒飲みのドワーフが、呆れた顔でエリザスを眺めているちょうどその時。


「ゴブリンラットが逃げたぞーっ!」という大声が、店の外から響いてきた。


 と同時に、子犬程の大きさもある巨大なネズミが、灰色の毛を逆立てて、半分開いていたドアの隙間から酒場に駆け込んできた。入り口付近の客は驚きのあまりワインの入ったカップを取り落とし、辺りは時ならぬ赤い雨が降り注いだ。


「うわーっ、化けネズミだーっ!」


「ぬをっ、俺のパンがーっ!」


「誰か捕まえてくれーっ! そいつは薬などで大きさと知能を通常の三倍にした、貴重な生物なんだーっ!」


 様々な怒号が渦巻く中、化け物ネズミはちょこまかと走り回り、いつの間にやら店の奥へと入り込んできた。


「フムッ、美味そうニャッ!」


 タンバリンをシャンシャン打ち鳴らしていた虎猫族の獣人が鼻をひくつかせた直後、楽器を放り投げるとたちどころに獲物目がけてまっしぐらに突っ込んでいく。


「うわっ、やめろ、ランダ!」


 弾き語りの男がバイオリンの弓を振り上げて怒鳴るが、猫娘は全く耳に入っていない様子で、「待つニャーッ!」と楽しそうに大ネズミを追いかけ回している。料理の皿がテーブルからこぼれ落ち、黒パンは宙を舞い、ワインやエールや水がそこら中にぶちまけられた。


「どどどどどないすんじゃこりゃあ!?」


「待って、バレリンさん。私にいい考えがあるから、そこでじっとしていて」


 エリザスは、どこかから飛んできたチーズの塊を上手くキャッチすると、「おじさん、ごめんね!」と、フード付きのコートを羽織って、カウンターの中に入り込むと、しゃがみ込んだ。酒場のオヤジは肝っ玉が太いのか、それとも諦めたのか、エリザスを咎めることもせず、カウンターの中でニコニコ笑顔を浮かべ、突っ立ったまま皿を拭いている。


 そこへ、香ばしいチーズの匂いにおびき寄せられたのか、あるいはここなら安全と理解したのか、ドブネズミの親玉はすばしっこく人込みをかき分けながら、カウンターの扉の下を潜り抜けると、直角に曲がって、隠れているエリザスの真ん前に現れた。


「今だ!」


 エリザスの瞳が怪しく輝くと、フードの隙間から覗く金髪が一瞬で太さを増し、のたうち回る蛇の群れと化した。

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