カルテ127 猫娘とバイオリン弾き その1

「えーっ、あなたがバレリンシロップの杜氏で有名な、あのバレリンさんなのーっ!?」


 秋も深まりつつあるとある日の夕暮れ時、酒場兼宿屋「三本首のアヒル亭」のカウンター席で、偶然隣同士になったドワーフと乾杯した後、素性を聞かされた金髪美女のエリザスは、仰天のあまりワイングラスを取り落としそうになった。


「いや~、お恥ずかしい。そんな大声で言わんといてくれ、お嬢さん」


 短髪をかきながら壮年のドワーフは照れ笑いし、人目をはばかるように、辺りに視線を配った。


「実はこっそり地元のグルファストから逐電してきたんで、うっかり知り合いにでもバレたら連れ戻されちまうかもしれんからの。そこんとこよろしく」


「どどど童貞じゃなかった、どうしてエール造りをやめちゃったのよ!? 私バレリンシロップにすっごく憧れてたのに~! 私の実家のあるインヴェ……おっと実家のあたりじゃ、エール酒なんてせいぜい馬ションエールだなんて陰口叩かれる、藁の味しかしない馬の小便並みの糞まずいやつしかなくって、いつもグルファストの名酒に憧れていたのよ~」


 まだ数口しか飲んでいないはずなのに、美貌の女性は早くも酒が回ったかのように泣きじゃくりながら、ごついドワーフに絡みだした。


「そうか、それはすまんかったの。まあ、わけを話せば長くなるんじゃが、実は商売柄、長年のエールの飲み過ぎが祟って、ちと病気になって足を痛めてしまっての、どうしたものか悩んでいたときに、あの伝説の白亜の建物が出現しての……」


「ええええええーっ!? 白亜の建物ですってえええええーっ!?」


 今度こそ胃がひっくり返るほど驚いたエリザスは、口腔内の赤ワインを、全てドワーフの髭面に噴き出していた。



 ザイザル共和国の首都・学問の都ロラメットよりだいぶ隔たったギャバロンの森の近辺に、地方都市・森の都ルミエールがある。人間以外にも、エルフやドワーフや獣人族など様々な種族の生活する、自由で賑やかな街で、林業やワイン業などで栄えていた。もっとも、活気に溢れているのと引き換えに、もめ事や喧嘩も絶えなかったが、衛士がしょっちゅう巡邏しているためか、大事に至ることは滅多になく、治安もほどほどに保たれていた。


 今、ルミエールは年に一度の収穫祭で沸き返っていた。あらゆる神殿で奉納が行われ、人々は祝い、歌い、一晩中踊り明かした。この時期に里帰りする者も多く、街の喧騒は遠くグルファストの地まで届くともいわれるほどだった。


 あの、符学院で女神竜が復活するという大騒動があった新月の夜の翌朝に学院を辞したエリザスは、一番上の姉のエミレースが化したもう一匹の女神竜の情報を得るため、人と噂が現在坩堝状態のこの街を遠路はるばる訪れ、さっそく酒場で情報収集と意気込んだばかりのところだった。



「ほう、するとお前さんのところにも、あのモジャモジャ頭が現れたというのか?」


 酒場の店主から渡されたタオルで顔を拭いながら、バレリンは頓狂な驚きの声を上げた。


「ええ、そうなのよ……といっても、私のせいで、モジャモジャ頭じゃなくなっちゃったけどね」


 エリザスは苦笑しながら、新たなワインを店主に注いで貰い、間髪入れずに今度こそグイッと一飲みにした。飲み干した後で、そういえばあの本多という医師から、再び食道静脈瘤破裂の恐れがあるため飲酒は絶対やめるよう釘を刺されていたことを思い出したが、まあ、ここまでの旅の間一滴も酒は口にしていなかったし、せっかく酒場にいるんだから、たまにはいいじゃないの、と心の中で言い訳した。まったく、喉元過ぎればなんとやらだ。


「ふーむ、不思議な縁じゃな。そういえばわしもここに長いこと居座っとるが、お主のように、白亜の建物に出会ったという者の噂を最近ちょくちょく耳にするのう」


 顔を拭いてさっぱりしたドワーフは、夕食夕食時でごった返してきた酒場の喧騒に負けじとばかりに、やや声量を大きくしてエリザスに話しかけた。


「ええっ!? それってどういうことかしら?」


「さてのう、わしは酒のこと以外はさっぱりわからんが、何か良くないことの前触れでないといいがのう」


 バレリンはワインの入ったカップから顔を上げ、窓の方を伺った。既に秋の日は落ちかけ、空は群青色が濃くなりつつあるが、街はそこら中に色とりどりのランタンが吊り下げられ、屋台に群がる人々を真昼のように明るく照らし出している。十日間続くといわれる祭りは、まだ始まったばかりなのだ。


「良くないことって?」


「なに、単なる勘じゃ。わしも含めて、ここの飲んだくれどもは、浮世の憂さを忘れて浮かれ呆けておるが、気づかぬうちに、得体のしれぬ何かがこの世界にじわじわと広がっておるんではないか……わしらの患った病のようにな」


 やや赤くなった眼に、ドワーフは僅かに光を宿らせたが、すぐに手元のワインに視線を戻すと、「と、たまに考えるんじゃが、恐らく酔っぱらいの杞憂ってやつじゃろう。わしはエールじゃと陽気に酔えるんじゃが、どうもこのワインってやつは、時々おセンチになっていかんわい、ガハハハハ」とわざとらしい笑い声に、重苦しい雰囲気を紛らわせた。

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