カルテ38 山荘と冬の護符と亡霊騎士 その14

「それって、この前のルセフィさんの症状と全く一緒じゃ……」


 テレミンが、場を支配していた凍りついたような沈黙を破り、微かにつぶやく。


「はい、その通りです。彼女は多分お母さんと同じ病気だと思います。更には、お母さんは、手先の痺れやめまいも生じ、どんどん物が見えにくくなってきたと言っておられました」


「うむ、聞いたことがある。子爵夫妻は、夫人のご病気を治すため、ありとあらゆる手段を求められ、それに費やした費用は天文学的な数字になったとまで聞いておる。そのため家財や奥さんが製作した護符などを売り、借金までしたとのことだ。ちょうどお腹の中にルセフィ嬢を身籠っており、意地でも治そうとしたのであろう」


 男爵が、遠い目をしながらかつてを偲ぶ。


「というわけで、如何なる方法でも病いを治せず、苦しんでいたお二方の前に、我が本多医院が出現したってわけですね〜。まぁ、確かにこちらの世界の医学じゃどうしようもなかったでしょうけど、さすがに僕には話を聞いただけでわかっちゃいましたよ〜。これ即ち、糖尿病って有名な疾患です!」


「トーニョービョー?」


 なぜかダオニールが長い鼻をひくつかせる。


「血液の中の糖の値が高くなって、おしっこにも糖が出てくる病気ですね。糖が高い高血糖の状態だと、初期は倦怠感や口渇を訴えますが、悪化すると意識不明となって昏睡状態を引き起こし、継続すると命にも関わるんですよ。昔は僕の方の世界でも原因や治療法がわからず、つい百年程前までは、『尿から糖が漏れ出すから、治すには糖を摂取すれば良い』って滅茶苦茶な説がまかり通っていたので、笑っちゃいますけどね〜、ま、医学の歴史なんてそんなもんですよ」


「なるほど、それでルセフィ嬢からは花の蜜の如く芳しい香りがしたわけですか! ウォーっ!」


 ついに合点がいった人狼が、遠吠えのごとく雄叫びを上げる。


「やめてよ! この変態畜生め!」


 さすがにルセフィも頬を赤らめ、自由な足で、獣の尻尾を踏んづける。


「キャイ〜ンっ!」


「楽しそうなところ申し訳ありませんが、そこの臭いフェチ狼さんのおっしゃる通り、尿臭から病気が判明したってことも結構あるんですよ。例えば、昔は僕のうちの近所は汲み取り式のボットン便所ってやつが多かったんですが、定期的に来る汲み取り業者が、汚物から甘い匂いがするので、そのお宅に病人がいることに気づいたって話もありますね〜」


「でも、どうして指やら目にまで症状が現れるんですか?」


 横道に逸れつつある医師の漫談を、テレミンがなんとか軌道修正する。


「おっ、良い質問ですね〜。血液中の糖の値、いわゆる血糖値が上昇すると、身体中の小さな血管が徐々に破壊されていき、やがて神経や、目の網膜や、腎臓の病気を合併しやすくなっちゃうんですよ〜」


「その病気はなぜ起こるのでしょうか?」


 黙って聞いていたフィズリンまで、興味が湧いてきたのか絶好調で講釈するモジャモジャ頭に問い掛ける。


「そうですね、ちと難しい話ですが、膵臓のランゲルハンス島ってところには、血糖値を下げる働きをするインスリンって重要物質を分泌する、β細胞ってやつがありましてね。糖尿病は、このβ細胞が破壊される、比較的若年で発症しやすい1型と、肥満や運動不足などの不摂生を原因とする2型に大きく分けられます。もっともそれ以外もちょっとはありますけどね。前者の治療法は、インスリンを血液内に注入することで、後者の治療法は、主に食事と運動療法ですね。ルナベルさんの場合は、それほど太っておらずむしろ痩せており、二十五歳以下で発病していたので、1型と診断し、インスリンによる治療法をお勧めしました。注射器を予備のと合わせて二本もプレゼントしちゃいましたよ〜」


「でも、インスリンなんて、こっちの世界にあるんですか……って、ひょっとして!」


 テレミンがもっともなことを聞くが、どうやら質問の途中で閃いたらしく、発語を中断した。


「ま、まさか!」


 少年の次に勘の鋭いダオニールも、ただでさえ大きな口を、張り裂けんばかりにぱっくりと開け、全身の毛を逆立てる。


「すいませんが、お話がさっぱりわからないのですが……」


 寒そうに小屋の隅で肩を抱いていたコンスタン夫人が、医師に正解を促す。


「まあまあ、ここはひとつ、僕の得意な昔話をご披露しましょう。以前映画……っていってもわからないか、演劇みたいなもので知ったんですけどね。え〜、昔、中国という飯の美味い国で民衆の反乱が起き、北京城という皇帝の居城に、人々が籠城することになりました。その閉じ込められた人の中に、糖尿病を患っている男性がいたのですが、インスリンが不足するという緊急事態において、彼は城内で飼っている家畜を殺して膵臓を取り出し、見事にインスリンを抽出して生き延びたのです。でも、インスリンが発見されたのは、その反乱が起きてから二十年程後なので、どう考えても作り話ですが、結構面白かったですよ~。ちなみに昔はインスリンを、動物の膵臓を、氷冷したリンゲル液っていう体液に似た液体の中ですり潰して得たんですが、別にリンゲル液を冷水で代用しても構わないとは思いますけどね〜。いや〜、映画、じゃなかった演劇って本当に良いもんですね〜。以上でお話はおしま〜い。いちがさけたっと」


「……」


 皆の視線は医師ではなく、床に横たわる二体の遺体の切り開かれた腹腔に向けられていた。

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