カルテ186 運命神のお告げ所(後編) その2
「うう、ダイドロネル……なんでお前が……」
まるでつぶされたカエルのように、広場手前の小石の転がる石畳の道にうつぶせに寝ころびながら、黄土色のチュニックとズボンを身につけた穴兎族のアカルボースはか細くうめいた。眠気が波のように絶えず押し寄せ、頭は二日酔いの朝のようにガンガン痛むが、ここで意識を失うわけにはいかないと、下唇を血の出そうなほど噛みしめる。少しでも前に進もうとするためかじかんだ手を伸ばそうとするも、痺れたように微塵も動かない。
先ほどインヴェガ帝国人の男がいきなり護符を突き出し解呪を唱えたとき、危険を察知した彼は咄嗟に地面に伏せ、そのおかげで眠りのガスを吸い込む量を最小限に抑えることができた。しかしそれでも効果は絶大で、あっという間に身動きが取れなくなり、愛する息子のダイドロネルが昏倒し、男に連れ去られる姿をみすみす見ていることしかできなかった。
「おのれ……!」
悔しさと悲しさと不甲斐なさとで、ただでさえ赤い眼が極限まで充血し、毛細血管が破裂しそうなほどだったが、とりあえず身体を起こさないことにはどうしようもない。
「ググッ……!」
腕や脚の筋肉に力を籠めるも、努力空しく全身はまるで泥でできたように脱力したままで、かすれ声が喉の奥から途切れ途切れに噴出するのみだった。
「アカルボースさん、こんなところで寝そべって、一体どうしたんですか!?」
「いくら獣人だからって、この寒空じゃ風邪をひきますよ!」
半ば諦めかけていたとき、聞き覚えのある二人の女性の声が頭上から降って来たため、アカルボースはなんとかそちらに長い耳先を微かに向けた。
「あ……あんたたち、わざわざ追いかけてきてくれたのか……?」
「そんなことより、何があったというのですか? あのふわふわ……もとい、ダイドロネルくんはどこへ行ったんですか?」
ルセフィの細い手が、アカルボースの肩をチュニック越しにゆさゆさと揺さぶる。彼はめまいが悪化し、思わず吐きそうになった。
「インヴェガ帝国人の大男……茶色い毛皮のコートを着ていた……そいつがいきなり息子とおいらの前で眠りの護符を使った……息子は眠らされ、連れ去られた……」
「「ええっ!?」」
女性陣の甲高い驚きの声が耳元で響き、アカルボースは耐え難い頭痛に襲われ、ついに石畳に嘔吐した。小石の陰に潜んでいた高山トカゲが、驚いたように身体をわずかに震わせた。
「……ここら辺まで来れば、もう大丈夫かな?」
ごつごつした山頂にそこだけ丸みを帯びた陰影を青白く輝かせるお告げ所を遥か後方に置き去りにしながら、インヴェガ帝国人の大男ことケルガー・ラステットは、目深くフードを被り、大きく膨らんだ袋を肩にかけ、意気揚々と岩だらけの山道を下っていく。今頃お告げ所の前では、偽の炊き出し情報に騙された愚かな待機者たちが、ブーブー文句を言っている頃だろうが、正直言って知ったことでは無い。首尾よく任務は無事に完了したのだから、後は野となれなんとやらだ。
吹きさらしの山道はだいぶ夜風が強まり、亡霊の泣き叫ぶような風音はいよいよ胸を掻き毟らんばかりに激しさを増してきたが、ケルガーの心中はそれに反して鼻歌でも歌いたくなるような気分だった。ここから先はもう帝国領だ。
神聖なるお告げ所の周辺は独立領的存在であり、ここには帝国の威信も及び難いが、それも頂上付近だけの話で、山脈の北側は勝手知ったる祖国である。このまま山を下りて麓までたどり着けば、後は気ままな馬車の旅だ。この荷物が逃げ出さないよう見張っている必要はあるが、それも帝都プロペシアに着くまでの辛抱だ。
(晴れてお役御免になれば、久々に帝都で豪遊もいいかもしれんな。馬ションエールなんかじゃない高級酒と、山海の幸をふんだんに使った名物料理と、ふるいつきたくなる絶世の美女と……)
「グガッ!」
突如背後から飛来した石が浮かれたケルガーの後頭部に激突したため、楽しい妄想はそこで強制終了と相成った。
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