カルテ185 運命神のお告げ所(後編) その1
「はぁ、はぁ……くっ、こんな時に……」
石造りの宿泊所の二段ベッド下段に臥床したまま、穴兎族の女性、リルピピリンは、襲い来る激しい胸痛に耐えながら、まるで死の瀬戸際の獣のごとく、うめき声を上げた。全身から滴る汗で薄い毛布はしとどに濡れ、現在誰もいない室内は閑散とし、彼女の時折吐き出す荒い息が石壁に反響するのみだった。
先ほどまで留まっていたテレミンという聡明そうな少年と、ダオニールという飄々とした初老の男も、外に飛び出した彼女の息子のダイドロネルの捜索のため、既に宿泊所を後にしていた。急に呼吸苦と胸痛が出現したのはそれからしばらく後の事だった。
「はぁ、はぁ……」
喘ぎながらもなんとか酸素を体内に取り込もうとするも、ただでさえ薄い高山の空気は彼女の肺まで一向に届かず、穴兎族特有の赤い耳介が徐々に紫色に変色していく。
「助けて……あなた……」
苦しい息の下、彼女がおぼろげに思い出したのは、先ほど夫が話していた、奇妙なお告げの事だった。
「あれは……一体どういう意味だったのかしら……はぁ、はぁ……」
蒼い帽子を被った、顔色の悪い儚げな少女の顔が、一瞬脳裏をよぎる。
「まさか……ね」
そう呟きながらも、何故かリルピピリンの脳内に、「ヨメニイノチノキキオトズレシトキ、アオキボウシヲマトイシヲトメノクチヅケヲウケヨ、サレバスクワレン」というお告げの言葉が影のようにつきまとい、決して消えることはなかった。
「やれやれ、一体どこに行ったのかしら、おちびちゃんとお父さんウサギは」
夜の山道を、まるで日中のように灯りも持たずにスタスタと危なげなく歩く青い帽子の少女ことルセフィの後から、「待ってください、ルセフィさん!」と右手にランプを下げた女性ことフィズリンが必死に呼びかけ、追いすがる。
「あら、ごめんなさいね、フィズリン。あなたには暗視能力が無いことをすっかり忘れていたわ。お父さんウサギ……じゃなくってアカルボースさんは、こっちの方に向かったように見えたので、つい急いじゃったのよ」
「そ、そうでしたか、私にはよくわかりませんでしたが……それにしても、寒いですね」
ようやくルセフィに追いついたフィズリンが、ぜいぜいと息を吐きながらも肩を震わせる。氷の精の吐息のごとき高山の冷気はメイド服の上に羽織ったマントをも容赦なく貫き、彼女の全身を震え上がらせていた。
「そう? 人間って不便よね……なんだか気温を普通に感じた頃がはるか昔みたいで懐かしいくらいだわ。しかしどうしたものかしら。いっそ蝙蝠に変身して、上空から探すっていうのはどう?」
「お願いですから、目立つような行動は避けてください! ただでさえこの辺りは人が多いんですから。だけど、確かに弱りましたね。あーあ、こんな時、臭いフェチだけど、異常に鼻の利くあの人がいてくれたら……」
「そうね、一旦宿泊所に戻って、あの変態狼執事を引っ張ってこようかしら……ってあら、あそこに誰か寝転んでいない?」
足を止めフィズリンの提案について思案していたルセフィが、ふと脇道の方を指差す。その方向には、先ほど一同が休憩していたトイレのある広場があった。
「暗くてよく見えませんが、言われてみるとそんな感じがしますね。こんな寒い夜に野宿でしょうか?それとも獣かなんか?」
「……いいえ、あれは野宿や獣なんかじゃないわ! アカルボースさんよ!」
暗闇を凝視していたフィズリンを押しのけるようにして、ルセフィは広場の方に向かって、矢のような勢いで細い道を駆け上っていった。
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