カルテ56 符学院の女神竜像 その10
「……というわけですが、手順は頭に入りましたか?」
セレネースは、右手を点滴に繋がれたまま診察室のベッドに仰向けに横たわるエリザスに、よどみなく説明を行っていた。室内は二人きりであり、いつも本多が座っている椅子に誰もいないのが、赤毛の受付嬢にはやや物足りなかった。
「まぁ、大体は理解したつもりだけどね。でもあたしったら、出血しているところを直接目の当たりにしちゃうのが心底怖いのよー。昔から血だけは本当にダメでね、トイレじゃいつも便器の中を見ないようにしていたし、鼻血が出るな、と察知した瞬間にしっかり鼻をつまむ習慣ができちゃったくらいよ。さっきも自分の吐いた赤い海を目撃したショックで、心臓が蹴り上げられたボールみたいに跳ね上がり、集中力が途切れてメデューサの姿に戻っちゃったのよー。ああ、とっても不安だわー」
エリザスはセレネースからコップを受け取り、少しばかり水を飲むと、小さくため息をついた。
「なるほど、よくわかりました。では、まずはその不安を抑えないといけませんね」
「ええ、そうだけど……そんなことって出来るの?」
キョトンとした顔で自分を見つめる美貌のメデューサに対し、セレネースは非常に小さな透明な瓶のようなもの……アンプルをさっと披露した。
「何、それ?」
「これはアタラックスPと呼ばれる薬です。H1受容体拮抗薬に属するもので、術前や術後の吐き気防止に使用されたり、不安、緊張、抑うつを和らげる抗不安薬としても用いられています。これを現在注入中の点滴に混ぜておきましたから、しばらくは不安症状が軽減されると思われます。どうかご安心ください」
「す、凄い! さすが異世界の医学ね。精神状態まで薬でコントロールできちゃうなんて……」
「不安というのは脳の様々な伝達物質と呼ばれるものによって左右されますからね。もっとも、ゆっくり呼吸をしたり、好きな音楽を聞いたり、手をぎゅっと握ったり、冷たい水を一口飲むことで不安が落ち着く場合もあります。中には頭の中で計算問題を解くとリラックスできるって人もいますけど」
「へー、今度試してみるわ。それにしてもあなたって本当によく知っているわね」
「まぁ、バカ医者……じゃなかった、本多先生に様々な知識を教えていただきましたので」
赤毛の美女は、表情は変わらないが、何となくエリザスと視線を逸らすと、あらぬ方向を見つめた。まるで、照れ隠しのように。
「次に、口を大きく開けてください」
「はいっ!」
晴れ渡った青空のような溌剌とした声で元気よく答えると、エリザスはやや紫がかった唇をカパッと限界まで大きく開けた。
「ちょっと失礼します」
どこから持ち出したのか、セレネースは右手に持ったスプレーを、喉ちんこの奥までよく見えるエリザスの口腔内に、プシューッと噴霧した。
「こ……これは何?」
「キシロカインスプレーという、局所麻酔薬です。これによって内視鏡……今回は蛇ですが、それが通過するときの喉の痛みを緩和します。もう少し経てば効果が現れてきますよ」
「なるほど……いろいろあるのねー」
エリザスは見慣れぬ物に一々感心することしきりだ。待つことしばし、確かに口の中の感覚がやや鈍くなってきたのを感じ、彼女はその時が来たことを知った。
「では、そろそろお願いします。準備はいいですか?」
「だ、大丈夫よ! それじゃ行くわよー!」
意を決したエリザスは、瞼を固く閉ざすと、身体のただ一箇所に精神集中した。頭部から生えた、腰まで達する黄金の蛇のうちの一匹が、ゆっくりと真珠の肌を這い登り、トンネルのように開かれた彼女の口元に静々と入り込む。
「グェっ!」
早速エリザスは吐きそうになってえずいた。
「駄目です。そのままゴクンと飲み込んでください」
無情にもセレネースが鬼コーチのごとく指示を飛ばす。青息吐息のメデューサだったが、何とか嫌いな野菜を食べるときのような調子で、蛇の頭を嚥下した。
「いいですよ、その調子です。ここからは先程取り決めしたように、左手でサインを作って答えてくださいね。まず、食道の中の様子はちゃんと見えますか?」
セレネースの質問に、エリザスの左手は、親指と人差し指で輪を作ることによって返答した。丸、つまりはYESということだ。魔獣である彼女は、吸血鬼などと同様、暗闇でもものが視認できる暗視能力を有していたが、それは頭髪の蛇も同様だった。暗黒の体内も、彼女にとっては赤外線スコープをつけているかの如く、何の支障もなかったのだ。
「では、そのままゆっくりと蛇を進めてください」
その言葉と共に、エリザスと五感を共有した、今や彼女の分身ともいえる蛇は、そろりそろりと、魔王が待ち受けるラストダンジョンもかくやという、肉壁に覆われた洞窟の探索を開始した。
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