カルテ8 吸血鬼と怪鳥 その3
「いらっしゃいませ。ユーパンからのお客様ですね?」
ドアを潜った先の、見たこともない造りの異形の玄関に圧倒されていたリリカは、無機質な女性の声に一瞬面食らった。
「ここは……どういった施設なの?」
「ここは本多医院。患者様の治療をする場所です」
白衣を着た赤毛の美女−セレネースはゼンマイ仕掛けの時計のごとく、一字一句を同じ長さで発音した。
「治療だと……フッ」
リリカはつい、吹き出しかけた。すべての肉体的な病気にかからず、例え身体が粉々に砕け散ったとしても、時間さえかければ元どおりに再生する不死の一族に、治療ほど縁のない言葉はなかった。
だが、彼女は悠久の時を生きる自身よりも古い言い伝えを思い浮かべる。現在、自分に何か問題があるからこそ、この白亜の建物は我が前に顕現したのではないのか?
海鳥に惨敗し、泥や鳥の糞にまみれてボロ雑巾のようになったリリカは、つい何かに頼ってみたいという想いに支配されていた。強い魔力を感じるこの領域は、何か得るものがありそうな予感に満ち満ちていた。病い云々はひとまず脇に置くとして、折角一期一会の機会が向こうからやって来たのだ。魔法的な興味もあったし、少なくとも入って損はないだろう。
そう考えているうちに、いつしか彼女は吸い込まれるように建物の内にいたのだった。
「では、今から問診票を作成しますので、まず、あなたのお名前、種族、性別、年齢を教えてください」
「なんですって!?」
セレネースの事務的な声に、リリカの全身から怒りのオーラが噴出した。
「すべての生物の頂点に立つ誇り高きあたしに名を問うとは無礼千万なアマっ子ね! あなたのような下等な生き物の人間ごときに名乗る名前なんか……ん?」
そこで初めてリリカは、目の前の女性が人間どころか生き物ですらないことに気がついた。生命の力を魔力として感じ取れる彼女だからこそ知り得た事実ではあるが。やはりこの地には、何か特別な秘密がありそうだ。
「いいわ、あなたに興味が出てきたし、特別に教えてあげる。耳の穴を鼓膜の奥底までかっぽじってよーくお聞きなさい! 我こそは、リリカ・アクリノール・ゾニサミド! 気高き至高なるバンパイア・ロードの淑女なり! ちなみに年齢は恥ずかしいから言わないけど、下二桁は17歳よ! だから17歳って書いときなさい! これで満足?」
「よろしいです。あとは、現在お困りのことを教えてください」
「バカ鳥が倒せなくてイラついていることぐらいよ! ムキーっ!」
「わかりました。それと……」
セレネースは眉一つ動かさず何やら書き込みながら、自称高貴な淑女に向かってこう言い放った。
「失礼ですが、リリカ様は泥まみれでとても汚れておられるので、よく身体を洗って着替えられてから、診察室にお入りください」
「ぐむむむ……」
リリカは手負いの獣のごとく唸ったが、確かにその通りだったので、不承不承頷いた。
「まったく無礼にもほどがあるわ! こんな安物のみっともない服に着替えさせられるなんて!」
バスルームで全身の汚れを洗い流し、綺麗さっぱりしたリリカは、患者用の青い薄手の病衣に身を包み、一人憤慨していた。だが、入浴中もいろいろと珍しい物に好奇心を刺激させられたのも確かだった。
吸血鬼は身体から代謝物が生じないため、それほど清潔に留意する必要などないが、それでも埃や泥などが付着することはあるため、数年に一度、身体を清めることがあった。
ただし周辺に木も生えていない城では熱いお湯での湯浴みなど出来るはずもなく、海水くさい井戸水に浸した布で身体を拭く程度であったし、しゃわぁとかいうお湯が無尽蔵に流れ出る器具や、すぽんじとかいう柔らかい身体を擦るものや、そおぷとかいう泡立つ液体など見たことも聞いたこともなかった。
「ここは異世界とこちらの世界との狭間に存在するって、古代の文献で読んだことがあるけれど、あちらの方が文明が進んでいるようね……」
気の遠くなりそうなほど永い永い年月を生き続けてきた彼女には、人間どもの生活の変化を眺めてきた経験から、そのことがよく理解できた。ここまでのものが出来るには、あの猿どもには少なくとも後数百年はかかるであろう。
「おや、見違えられましたね。では、診察室にお入りください」
人外の受付嬢がまたもや棒読みの暴言をぶっ放す。リリカは一瞬破壊衝動に襲われたが、舌打ちのみで耐えた。
「その前に久々に蘇生したのでお腹が空いたわ! 湯上りに人間の生き血ぐらいないの?」
「無茶言わないでとっととお入りください。先生がお待ちしていますので」
「もう、わかったわよ!」
真祖たる彼女は、駄々っ子のように悪態をつきながら、診察室に押し込まれた。
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