カルテ84 ハイ・イーブルエルフの密やかな悩み その1

-これはマンティコア一行とハイ・イーブルエルフのイレッサが出会う数ヶ月前のお話-



 天の底が抜けたような凄まじい雨が午後の山中に降っていた。谷川沿いの道は、右手を岩がむき出しの山肌、左手を深い崖に挟まれた、ただでさえ通りにくい隘路だが、おりからの犬と猫の大喧嘩の如き土砂降りのせいで、地面がぬかるみ、足元が非常に不安定となっていた。


 この歩くだけでも命がけな一本道を、信じられない速度で二つの人影が前屈みに走っていた。先を行くのは上から下まで黒装束に身を包んだ人物で、やや背は高く、覆面の隙間から鋭く光る糸目が覗いていた。後を追うのは枯葉色の服とマントをまとった入れ墨のある褐色の肌をした妖精族の男で、葦の群れような緑色のモヒカン頭が激しく叩きつける風雨にさらされて乱れまくっていた。両者の間の距離はいつまで経っても変わらず、彼らの脚力が互角であることを物語っていた。


「くそ、待ちなさい、そこの悪党! ハイ・イーブルエルフの孤高の戦士イレッサ様から逃げおおせるとでも思ってんの!?」


 全身ずぶ濡れになり、荒い息を吐きながらも、異形の妖精族ことイレッサが、前方の黒い影に豪雨に負けじとがなりたてる。しかし黒装束の動きが止まる様子は欠片も無く、命がけの追いかけっこは果てしなく続くかに思われた。


(やるわね、こいつ……かなりの修羅場を経験していそうだわ。でも逃さないわよ! それにしても足が痒いわね……ああ、早くブーツを脱いで、誰もいないところで心行くまで両足を掻きむしりたいわ〜)


 追跡中にもかかわらず、イレッサは足裏の掻痒感が気になり、つい余計なことを考えてしまった。そういえば、何やら頭やら股間までムズムズしてくる。こいつは本格的にマズいと本能的に察し、右手でビシッと額を叩いて気を引き締めると、さて、どうやって厄介な黒づくめ野郎の足止めをしようかと思案した。


(呼子の笛はさっき泥水が詰まっちゃって掃除しないと吹けないし、仲間は呼べないわね……得意のクロスボウはこの状況下ではセッティングが難しいし……この大雨だし、炎系統の魔法は多分無効だわね……いっそ水流で崖下に押し流してもいいけど、ヤツの仲間のことを聞き出さないといけないから、命までは奪いたくない……かといって目くらましの光系統は後ろ向いてるから無意味でしょうし……あ〜ん、一体どうすればいいのよーっ!)


 考えれば考えるほど八方ふさがりになり、つい悲鳴を上げそうにまでなったイレッサだが、雨水とともに喉元に流し込んだ。諦めるのはまだ早過ぎる。必ず何か方法があるはずだ。炎、水、光がダメなら、残るは……。


(よし、決めたわ!)


 イレッサは胸中で拳を固く握り締めると、現実に立ち返り、一旦走るのを止め、右手を地面につけると、「ロカルトロール!」とかすかに聞き取れるほどの小声で呟いた。詠唱と同時に彼の頬に刻まれた蔦を形取った入れ墨が淡い光を放ち、雨に濡れた褐色の肌を青白く染める。途端に彼らの立つ大地が鳴動し、右側にそそり立つ断崖が、風に吹かれる木の枝の如く、音を立てて揺れ動く。


 これぞ、ハイ・イーブルエルフの持つ神秘の力だった。かの一族は、皆、護符なしに、唱えるだけで魔法を発動することが出来るのである。しかも通常の護符師には作成困難といわれる地震の魔法も、この通り楽々と使いこなせるのだ。


「な、なんだ!?」


 ようやく前方の黒装束の足の運びが停止し、こちらを振り返った。


「よし、今よ!」


 ここぞとばかり、足底が疼くのも構わずに、イレッサは一本の矢と化して相手に向かって飛び込んで行く。だが、あと少しで取り押さえられるところまで来て、彼は黒づくめがいつの間にか手にオレンジ色の札を握り締めていることに気づき、早まったと悟った。相手も千載一遇のこの機会を最初から虎視眈々と狙っていたのだ、とわかった時にはもう手遅れだった。


「インデラル!」


 陰々とした男の声と共に、護符と同色の毒々しい蛇がシュルシュルと音を立てて手元から抜け出し、イレッサ目掛けて牙を突き立てんとばかりに襲いかかる。


「へへへへへ蛇ですって〜っ!? あたい、それだけは絶対ダメなのよ〜っ!」


 なんとも情け無い悲鳴を発しながら、自称孤高の戦士は哀れなくらいにうろたえた。その拍子に滝のような大雨で洗われ緩んだ地面の一部が滑り落ち、幸か不幸か毒牙が刺さる寸前で、彼は体勢を崩して谷底に鞠のように転がり落ちていった。


※すみませんが今回から更新が二日に一度になりますのでご了承ください。

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