カルテ92 ハイ・イーブルエルフの密やかな悩み その9
「さて、話を元に戻しますが、蛇の交尾みたいなさっきのやつが、何者なのかは残念ながら現時点では明言できませんが、推測ぐらいでしたら述べられますよ。どうやらその形状と大きさから、これも真菌のたぐいかもしれません。ただし、皮膚の外観はあくまで一般的な水虫ですから、これ自身が何か症状を起こしているとは考えられませんね。ひょっとしたら、あなたもしくはあなたの一族にのみ寄生している固有な菌の可能性もあります」
「はぁ……よくわかんないけど、この壊れた螺旋階段みたいなのが悪さをしているんじゃないってことなのね?」
イレッサは何とか医師の仮説を頭の中でかみ砕きながら、置いてけぼりにされないように問いかけた。
「多分、ですがね。医動物学教室にでも持っていけば凄く喜んでくれるとは思いますけど、異世界の生物なんてちょっと言えませんしね。しかし、つい先ほど、『今までこんなもの見たことがなくて、つい興奮しちゃいました』なんて口走っちゃいましたけど、なんかどこかで聞いたような……う~ん、なんだっけ?」
本多はバオバブの木のごとき鬱蒼と茂る頭髪を、前後左右に振り、更に、それでも思い出せないのか、記憶を見つけ出そうとするかのように、ガシガシとモジャモジャ頭を掻き毟った。
「ちょっと、フケが飛ぶしやめてちょうだい! いいかげんにしないと、あたいの風魔法で吹き飛ばしちゃうわよ!」
イレッサは迫りくる粉雪のごとき白い魔の軍団に辟易し、小さく「カタプレス!」とつぶやいた。とたんに室内に突風が発生し、本多の身体を掴みあげると壁に向かって叩きつけた。
「うげぇっ! 本当に呪文を唱えないでくださいよ!」
「あ……あら、ごめんなさ~い。つい、いつものくせでやっちゃったわ」
イレッサは素直に謝りながら、痛む腰を押さえてうずくまる惨めな医師に右手を差し出し、つかまらせた。
「サンキュー。あいててて……しかし、あなたは護符も使わずに魔法を発動させることが出来るんですか?」
ようやく立ち上がった本多は、驚きの目で、苦笑いを浮かべているイレッサを見つめた。
「あっ、そうか、まだ言ってなかったっけ。あたいたちハイ・イーブルエルフは他の種族とは違って、独自の魔法文化を持ち、呪文の詠唱だけで魔法が使えちゃうのよ~。こんなことが出来るのは、後は奇跡を起こす神に仕える神官だけね、たぶん」
イレッサはやや自慢げに腰に手を当て、ドヤ顔をした。
「へぇ~、すごいもんですね~。そういえば、水虫ではないけれど、イーブルエルフさんを診たことはありましたが、考えてみればハイ・イーブルエルフさんの方は初めてなような気が……あっ、思い出したぞ!」
そこまで話すと本多はポンと両手を打ち鳴らし、机の引き出しを開けてゴソゴソと中をかき回し始めた。
「何かを探しているの?」
「ちょ~っと待ってくださいよ~。確かこの辺に……」
本多はブツブツつぶやきながら、ようやく求める物を見つけ出した様子で、「あっ、あった! ブラボ~!」と歓喜の声を上げると、引き出しの中から一枚のスライドグラスをつかみ取り、光にかざした。
「それってさっきと同じやつ?」
「いえ、これは全然違います。僕の部活の後輩で大学の病理学教室の講師になった優秀な奴がいましてね……って言ってもちんぷんかんぷんでしょうけど、まぁ有能な知り合いに、この前先輩権力を行使してちょっと無理に頼み込んで、こいつを造ってもらったんですよ。お礼に美味しいおでんぐらいは奢ってやりましたけどね~」
「話がさっぱり見えないんだけど……」
当惑気味のイレッサの表情をチラ見し、やや浮かれ気味だった本多は少しばかり落ち着いた。
「ああ、いろいろと先走ってごめんなさい。これは、今まで来たユーパンからの患者さんに貰った護符の切れ端をホルマリンなどを含んだ固定液っていうのに浸したりなんだりした後に凍らせたものをクリオスタットっていう機械でもって薄く切って作成した凍結標本ってやつです。身体の柔らかい組織に対してよく使われる手法でしてね、こうすると断面が潰れずにきれいに見えるって寸法ですよ~、フフ~ン」
説明しているうちに再び気分が高揚してきたのか、口笛でも吹き出さんばかりにウキウキした口調で滔々と語りながら、彼はくだんのスライドグラスをすでに顕微鏡にセットされているものと差し替えると、接眼レンズを覗き込みつつ焦点ハンドルを回しながらピントを調節した。とても楽し気な様子なのに、その反面まるで聖なる儀式を執り行う神官のように、または熟練した職人のように洗練された手際に、イレッサはうかつにもしばし見とれてしまった。
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