カルテ61 符学院の女神竜像 その15

「そうか、ソルは尖塔の一番てっぺんの鐘を打ち鳴らし、大きな音で驚かせて女神竜の目を開かせるつもりなのよ、先生!」


 地面に顔を突っ込んだままのプリジスタが、頭に血が程よく上ったせいか、珍しく冴えた発言をする。


「なるほど、さすがソルくん! でも、それはまずいわ!」


 ほぼ全裸に近い異形の女教師は、蛇の髪の毛と豊かな胸元をブルンブルンと震わせながら、一目散に教え子の少年の後を追った。


「ああ、エリザス先生、待って! おいていかないでーっ!」


 庭園にはただ一人残されたプリジスタの悲鳴だけが虚しく響き渡った。



 符学院の赤屋根の大鐘楼は九十メートルの高さを誇り、魔竜の侵攻の時も崩れなかった、歴史ある建物である。全ての始業時及び終業時に鳴らされる、通称「護符師の鐘」はロラメット中に響き渡り、その荘厳さは、人々が思わず日常生活動作の手を一旦止めて、符学院の方向を仰ぎ見るほどである。ただし、その内部は曰く付きの場所でもあり、留年続きの学生が鐘楼の最上階から飛び降り自殺したり、恋人に振られた男子学生が中の梁に紐をぶら下げて首を吊ったりしたといった負の言い伝えが多く、彼らの亡霊が住まう伏魔殿とも称されており、学生たちはほとんど近付かなかった。


 ソルは鐘楼内部の石造りの螺旋階段を、一足飛びに駆け上がっていった。中に入るのは初めてであり、正直少々恐ろしかったが、今は恐怖心よりも危機感の方が勝っており、足が止まりそうになったり、身体が震えたりすることもなかった。階段のところどころに庭園に向けて窓が開いており、外の様子が窺えたが、今のところ女神竜ことエレンタールが、鐘楼の高さを超えて浮遊することはなく、その姿を目に収めることが出来た。おそらく復活したばかりで、まだ完全に体の機能が回復していないのか、もしくは自ら視覚を封印しているため安全飛行を心掛けているのか、あるいは両方の理由でなのか、ソルには知る由もなかったが、この状況は好都合だった。


「よし、そのまま動かないでいてくれよ!」


 思わず声に出しながらも、数百段もの階段を休むことなく一気に突き進んでいく。あまりにもぐるぐる回ったために、めまいまで生じてきたが、構わずにゴールを目指す。ようやく鐘楼へと続く最上階の扉が目に入った時は、「やった!」とついガッツポーズをしてしまったほどだった。しかし……。


「くっ、開かない!」


 半ば恐れていたことだったが、鉄の扉は固く施錠され、押しても引いても開けることはかなわなかった。すぐ近くの窓から間近に見える女神竜の横顔を、焦燥感と共にソルは睨み付けた。敵は手の届きそうなところにいるというのに……。


「無理よ、ソルくん! そこは管理者のタフマック先生でないと開くことが出来ないの!」


 階下から、裸足っぽい足音と共に、聞きなれた女性の声が響いてくる。


「エリザス先生、こんなところまで来ちゃったんですか!」


 ソルは大急ぎで瞼を閉ざすと、明後日の方向を向いた。


「君が先生の忠告を聞く前にとっとと行っちゃったからよ! あー、疲れた!」


 ぜいぜいと肩で大きく息をし、頭髪の蛇を乱れさせながら、半裸のメデューサが一歩一歩石段を踏みしめ姿を現す。ご丁寧に相貌を左手で覆ったままなので、時間がかかってしまった様子だ。


「そうですか……だがそうなると困りましたね」


 ソルは渋面を隠しもせず、深くため息をついた。この場所から死人までを起こすといわれる鐘を鳴らす術はないし、千載一遇のチャンスをみすみす指をくわえて見送るしかないのか……。


「ソルくん、もしあたしの思い違いなら悪いんだけど……」


 彼の隣に並んで指の隙間から女神竜を透かし見るエリザスが、おずおずと話しかける。


「ど、どうしたんですか、先生?」


「君はひょっとして、ひょっとするとだけど、現状を打破する物を持っているんじゃないのかしら?」


「!」


 女教師の言葉に、突如少年は絶句し、体内から冷たいものが広がったように、顔から血の気が引く。


「ど、どうしてそれを……」


「きみがあたしの故郷をインヴェガ帝国だと見抜いた時に、先生もきみの正体をなんとなく察したのよ。教師を舐めてもらっちゃ困るわ、えっへん」


 この非常事態にもかかわらず、どう見てもダメ人間の女教師は誇らしげに黄金の胸を張った。


「それを使えばきみの立場が危うくなるかもしれないとは思うけれど、今は一刻一秒を争う時なの。お願い……」


 熱い彼女の息吹を耳元に感じ、怯えてばかりいた少年の心が動いた。彼は、ローブの袖から茶褐色の護符を取り出すと、目を伏せたまま、高らかに叫んだ。


「グルファスト!」

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